『法句経』(『ダンマパダ』)覚え書き②
法句166
以前の記事で『法句経』(『ダンマパダ』)の178番の詩偈を取り上げたが、今回は166番の句を取り上げてみたい。166番の文句は日常において指針となる言葉である。
まずは私がよく拝読する2冊の典籍の訳を引用する。
先ずは仏教学者にして浄土宗僧侶である荻原雲来博士の訳は、
続いて仏教学者で曹洞宗僧侶の片山一良博士の訳は、
大乗仏教では利他行を前面に押し出すが、ここでの釈尊は何はともあれ自己のやるべきことや本分にこそ専念すべきことを強調されておられる。もちろん他者のことはどうでもよいというような独善的な考え方ではなく、先ずは各自に与えられた役割や領分を全うせよとのこと、また他者の役割や領域にまで手を出して中途半端なことをすべきではないということであろう。
『正法眼蔵随聞記』に説かれる源頼朝公の態度
道元上人の法話録『正法眼蔵随聞記』には、源頼朝公が当に自己の本分に忠実なる態度を取った言行が記されており、我々に深い示唆を与えてくださっている。
上記の逸話は我々の日常生活を営む上でも指針となるものである。
時折ニュースなどである人が公共の場において善意や正義感から他者の規則違反や迷惑行為を注意をした結果、逆上されて大怪我などしたなどということを見聞きするが、このような場合は頼朝公の行動を見習うべきではないかと思う次第である。善意や正義感を持っており、それを行動に移すことはことは大変素晴らしく立派であることは確かであるが、やはり各自の本分や領分を弁え、然るべき役目の人に伝え、その人物から取り締まってもらうようにすることが最善の方法であると考えられる。そうすれば自己防衛にもなり、遺恨を残さずにその後は自分の本分も勤めることができる。
釈尊は人類の教師 祖師は良き指導者
ブッダは「両足尊」とも称され、衆生の中で最も尊い存在であり教師であるのだから、仏教徒は世間で云われているような処世訓や人生訓に惑わされることなく、釈尊が説かれる法を頼りにする。釈尊は深遠な教えを説かれる一方で解りやすい処世訓も説かれるから、釈尊の処世訓こそを至心とする。
また仏教に身と心を奉げて生き抜かれた祖師方を良き指導者として敬い、遺してくださった教えを主軸として生活する。少なくとも仏教徒にとってはそれが価値あることであると私は考える。仏教徒は仏教を立脚地として生きることに尽きる。
荻原雲来博士いわく、