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地点『光のない。』感想 赤松歩人(学生インターン)

マルチリンガル公演『ノー・ライト』は、地点の過去公演、エルフリーデ・イェリネクのテキストを舞台化した『光のない。』が原型となっています。今回、学生インターンシップの活動として「『光のない。』の公演映像を観て感想を教えてほしい」という課題が出されましたが、正直に言うと地点のインターンに参加しておきながら、私は『光のない。』を観たいと思いませんでした。東日本大震災をテーマにした作品と聞いていたからです。

私は宮城県仙台市に生まれ、大学進学まで18年間過ごしてきました。東日本大震災を経験したのは小学4年生、10歳のころです。私は内陸部に住んでいたので、親族や友人など身近な人は全員無事でした。ただ地震直後に雪が降り始めたこと、家の中は余震で危険なため車の中で夜を越したこと、水道管が破裂し道のあちこちが水浸しになっていたことなど、今でも鮮明に思い出せます。同時に、休日によく遊びに行っていた石巻や気仙沼の被害をニュースで聞いた時の絶望感は今も忘れられません。

震災から数年後、仙台市中心部はほとんど震災前と同様の状態に戻ったころ、沿岸部へ行く機会がありました。海岸近くは、建物は一つもなく、木も一本もない。ただ大きな壁が海岸に沿ってできていました。高校卒業後、原発事故の避難区域から解除された、福島県富岡町を訪れる機会がありましたが、人の気配がない壊れた店や民家が立ち並ぶ箇所がいくつもありました。復興が進むにつれ、震災に対しある認識が強まっていきました。「私たちは、被災者とはとても言えない」。良く知る隣の市では想像を絶する津波が、隣の県では原発事故が発生し、揺れを経験した程度で「被災した」などとはとても思えませんでした。実際に高校時代の友人と「自分は震災の当事者ではない」「被災者って誰のことなんだろう」「震災の被害について声高に話すのは、もっと被害を受けた人に失礼な気がする」といった話をすることがしばしばありました。

直接的、間接的に震災を題材にした映画や小説、演劇は数多く発表されましたが、そのほとんどに私は良い印象を持つことが出来ませんでした。震災を直接経験していない人が、同じく震災を直接経験していない人へ向けて作った作品が大半だったからです。もちろん制作意図やその意義は理解できます。しかし「震災は経験したが被災したとは思えない」私のような立場では自分事とも他人事とも見られず、率直に言うと不快感が強いものばかりでした。先日も震災を題材にした映画が公開されました。私の家族は「どう観ていいか分からない」と言い、同郷の友人は「(宮城県の)自分たちでも沿岸に住んでいた人の気持ちなんて分からない。なぜ震災をテーマにするのか」とかなり嫌悪感を示していました。そして大学進学を機に上京して以降、震災に対する感情はますます複雑になりました。東京で地元が宮城県だと言うと「3.11の時、大丈夫だった?」とかなりの確率で聞かれます。これは私にとってかなり衝撃的でした。というのも宮城県で「3.11の時、大丈夫だった?」と聞く人を私は見たことが無いし、私も口にしたことはありません。「大丈夫」では無い場合、相手も私も返答に困るからです。「大丈夫だった?」と聞く人は、相手も「大丈夫である」という前提を持っているか、震災に対して相当鈍感かのどちらかで、いずれにしても東京では震災は他人事になっているのだと思います。しかしこのように腹を立てている以上、私は自分が震災の“当事者”の一人であるという認識はしているのでしょう。ただ宮城県に戻れば被災者とは思えない。この曖昧さ、消化不良感が“震災モノ”を遠ざけたくなる要因だと思います。

しかし、私は『光のない。』を”真っ当な震災モノ“だと感じました。その大きな理由は、冒頭から一貫して行われる「わたし」「あなた」「わたしたち」「あなたたち」の応酬だと考えています。『光のない。』は、客席から舞台へ登った”出演者“が、お互いを、そして観客を指さし、時に自分を指しながら「わたし」「あなた」「わたしたち」「あなたたち」と呼びかけたり、確認する言動を繰り返します。この演出には様々な意味付けが可能になりますが、私にとっては”震災“という事象に対する当事者、部外者の二分法を破壊する行為に感じました。私の場合、東京出身の人から見られれば被災地宮城県から来た「あなた」であり、私の友人などは「あなたたち」被災者と捉えられるでしょう。対する私も震災を経験した「わたし」であり、当時宮城県にいた「わたしたち」の一人だと自己認識します。しかし宮城県に帰ったとき、私は沿岸部の人を”被災“した「あなた」、「あなたたち」と感じ、自分は被災者、当事者とは当然言えない「わたし」であり「わたしたち」だと捉えるでしょう。これらはあくまで震災の文脈における認識の違いですが、何かの出来事に対する”当事者“はそれを捉えるレイヤーの層によって大きく変わるということではないでしょうか。そして『光のない。』では「わたし」「あなた」「わたしたち」「あなたたち」という単語を発声し合う、交換し続けることで、”当事者”が曖昧になる。震災という衝撃的な出来事を、観客を巻き込む形で”当事者”の曖昧さを示しつつ”語る”ことは、私にとっては極めて真っ当で正確な表現に感じられました。

私の中で震災は、自分でも驚くほど大きな出来事になってしまっており、それを映画や演劇の題材にすることを消化できずにいました。『光のない。』はその消化不良を解消してくれた忘れられない作品になりましたし、『ノー・ライト』は更に進化した衝撃を与えてくれるのではないかと今から楽しみにしています。長々と駄文を読んでくださり、ありがとうございます。ぜひ『ノー・ライト』に関心を持っていただければ幸いです。

赤松歩人

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