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競馬は馬と人と、タヌキとモグラでできている〜岩川隆「馬券学入門」を読んだ。

馬キチ作家・岩川隆さんのエッセイ。

1987年初版


十二篇のエッセイが収められており、どれも面白い。

読んでいるうちに、競馬場に行きたくてたまらなくなった。

いちばん好きだったのが、

「胃潰瘍特等席」

というタイトルのエッセイで、胃潰瘍になった競馬友達と連れ立って競馬場に行く話。

ベッドに縛りつけられて天井を眺めているより、競馬場に行って空を眺めていたいね。もう、生きるのが面倒くさくなっているんだ

54p

胃潰瘍の友達、相当重症。

しかしこの友達、馬券は上手で、「え?こんなの押さえているの?」という馬券をとる。


「馬券は人なり」
である。つね日頃、大口をたたいていながら、いざとなると、こまごま手広く小心翼々の券法ぶりを見せるひともあれば、はかないと知っていて夢に賭けるひともある。配当ばかり気にする券法のひともあれば、ひとすじに単勝を一本買いする券法もある。血統券法、展開券法、調教券法、タイム券法、出目券法、情愛券法・・・とさまざまな技の流儀はあるが、剣の振り方には、”人”があらわれる。

57p


この胃潰瘍の友達は、「シニのM」の異名をもち、死んだと思ったら、どっこい元気。馬券も、とてもとれないような馬券を、しぶとく押さえているという。


これに似たようなことは、私も経験がある。

「これは取れないよ・・」と天を見上げると、隣の同行者が、「あれ?」などと呟きながら懐をゴソゴソ、「あ、100円だけ押さえてた」・・というような。


また、著者とMさんのあいだで、こんな会話が。

柵のそばまで行って芝生のコースを眺める。
「いい芝だねえ」
「今日は、タヌキの夫婦はどうしているだろうな」

59p


府中のコースにタヌキが出るというのだ。

そして、メスのタヌキが、調教中の馬の蹄に蹴られて、死んでしまい、丁重に葬られたそうだ。

「メスだったそうですよ」
「夫婦だったとしたら、もう一匹は男やもめで暮らしていることになる」
「子連れタヌキかもしれませんね」
「父子家庭だ。つらい生活を送っとるだろうよ」

60p


そして、モグラも出てくる。

コースを整備しても整備しても、モグラが出てきて、あちこち勝手に”穴”をあけてしまう。

本命・対抗がとんで馬券が荒れると、

「もぐら馬券め!」と舌打ちする。


ふたりの定位置は、直線コースの柵のそば。

そこにたたずみ、

ーー競馬は、馬と人間だけの世界ではない

と胸の中で思う。


タヌキもいれば、もぐらもいる。花から花へととぶ蜜蜂も、緑の芽をふく芝生も、青い空も黒い雲も、弧を描く小鳥も、みな競馬とレースへの参加者である。たまたま、その自然のなかを馬が走り、ひとが観ているにすぎない。タヌキに強い馬もいれば、弱い馬もいる。もぐらの頭を蹴とばす馬もあれば、穴に足をとられる馬もある。青い空が好きな馬もあれば、曇り空にほっとする馬もある。走っている途中に、自分が育った牧場と同じ湿気の空気を嗅いで、ふるい立つ馬もいる。人間が馬を走らせているとか、人間の頭がレースの結果を的中させるとか、それは、おこがましい思いあがりなのだ。

65p


Mさんが言う。

「三コーナーあたりで、マーチスの眼に、一匹の蠅がぶっつかるような気がするよ。かれは走るのがいやになるだろう」

66-67p



蝿とは言わないけど、1995年の有馬記念で、ジェニュインは風にやる気をなくしたというし、西日を嫌う馬もいる。

これらを予想のファクターとして考え出すととてもじゃないけど情報収集が間に合わないし、処理しきれないけど、要は競馬場で「そんな気がする」とのんびりと感じるのが、なんかいい。
きっと、胃潰瘍にもいいのだろう。。


このエッセイは、つづけて、直線でどのタイミングで叫ぶか、馬の名を叫ぶか、騎手の名を叫ぶか、著者の考えが記されている。

その部分も大変面白いが、引用がすでに多すぎるので、やめておく。


他にも、新潟競馬にまた別の友達と遠征する「夏旅のわらじ銭」、無人島に読み物を一冊持っていくなら競馬新聞はどうだろう、という問いから始まる「赤鉛筆、七日の心得」もすごく面白かった。


この本、1980年代に雑誌「優駿」に連載されたものをまとめたもののようで、競馬歴40年ぐらいの人には有名かも?

ただ、若い方はまったく知らないのでは?

Amazonでも古本で売っているので、おすすめです。


(1/29夜追記)

神保町の三省堂4F古書館に「馬券学入門」が入荷された模様・・。

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