ロードムービーが好き③「あの子を探して」
「あの子を探して」は、1999年製作の中国映画で、巨匠チャン・イーモウ監督作。
中国の動画サイトで見ました。
原題「一个都不能少」は、直訳では「ひとりでも欠けてはいけない」となるでしょうか。
なぜこういう題名なのか?も含めての感想を書いてみます。
あらすじ
13歳の少女敏芝は、貧しい村で育ち、中学校も出ていない。
そんな彼女が、村の小学校で臨時教師を務めることになる。
そして託されたミッションが「生徒がひとりでも欠けてはならない(一个都不能少)」というもの。
代理期間を終え生徒が減っていなければ、報酬を増やすという約束を胸に、敏芝は日々の授業に臨む。
しかし、ある日、生徒の一人が町の体育強化部にスカウトされ、村を出ることに。敏芝は必死で止めようとするが、生徒は連れて行かれてしまった。
そしてまたあくる日、クラスで一番わんぱくだった慧科が教室に姿を見せない。
彼の家は貧しく、都市部へ出稼ぎの為に駆り出されてしまったのだった。
敏芝は慧科を連れ戻そうと行動を起こす。
感想1「いつの間にか」
敏芝は最初は報酬に固執していたようだが、慧科を連れ戻そうとする奮闘はお金目的ではなくなっていく。
いつの間にか子どもたちへの愛着が芽生え、それが彼女の行動力の源となっていた。
都市部へのバス代を子どもたちに計算させ、黒板に板書させる教室のシーンや、バス代稼ぎのために子どもたちとブロックを運ぶシーン、稼いだお金でコーラを買い子どもたちと分け合って飲むシーンが続く。
毎日の交流の中で、敏芝の子どもたちに対する愛情が育まれていく。
感想2「村から都市へ」
村だけが舞台の映画であればロードムービーとは言えないだろうが、敏芝が都市へ向かうあたりから俄然ロードムービーらしい展開になる。
子どもたちと稼いだバス代は結局不足しており、途中でバスから降ろされてしまい、敏芝は歩きとヒッチハイクで何とか都市に着く。
しかし、出稼ぎ先に慧科の姿はない。失踪してしまったのだ。
敏芝の必死な捜索が涙ぐましい。
音声での迷子呼び出し、なけなしのお金をはたいて買った墨汁と紙で自作した尋ね人ポスターなどは無駄打ちに終わってしまう。
都市部の人間は、敏芝をまったく相手にしないほど冷たくはないのだけど、基本的には都会のルールの中で生きている。
尋ね人ポスターも、それを目にした青年に「こんなの意味ねえよ。誰が見るんだ。連絡先も書いてないし」とバカにされるが、一方で「効果があるのはテレビ広告だろ」とヒントを与えられる。
しかし、テレビ局への行き方については、「自分で聞けよ」とあしらわれる。
この辺り、都会人の振る舞いが活写されていると思う。
人情はあるのだけど、限られた余裕の中でしか人助けができない、都会の人たち。
感想3「リアルガチ」
感想と言いつつ、あらすじの延長のようなことを長々と書いてしまった。
今回、中国の動画サイトで見たので、画面上部に視聴者の感想が右から左に流れていくので、それもチラチラ見ながら映画を見た。
目立ったコメントとして「真実(ガチ)」が多かった。
当時(1990年代)の中国の貧困地域や都会の様子、人々の振る舞いに対して、視聴者が「そうそう、こんな感じだった」と共感しているコメントが多く見られた。
登場する人々の振る舞いは本当にリアル。
敏芝はチャン・イーモウが見出した新人(=素人)であり、村の子供たち始め、ほとんどの演者が素人なのだそうだ。
村長や、テレビ出演を許可することで救いの神となるテレビ局の局長などは、本当の村長、局長なのだというから驚いた。(特に局長は演技が本当に自然でびっくりする。)
それらの人々の振る舞い、表情、言葉づかいから、ほとんど演技臭さを感じなかった。
敏芝が街で人に話しかけるシーンなどは、ひょっとしてカメラを隠してガチの通行人に話しかけさせているのかもしれない。
作り物のはずなのに、リアルなものから受ける感動がある、そんな作品。
<最後に>敏芝は、この映画のあと俳優の道を目指したい考えもあったそうだが、チャン・イーモウの勧めで一旦教育をしっかり受けることを決心し、苦手だった標準語をマスターし、さらに英語を学び米国留学を経るなどして、作り手として映像作品に関わっているそう。以下動画参照。