坪松博之「Y先生と競馬」を読んだ。
「Y先生」は小説家・山口瞳のこと。
著者の坪松さんはサントリーの広報部の方で、山口瞳の担当編集者。
この本は、タイトルそのままに、坪松さんが親子ほど年の離れた山口瞳の競馬場通いに同行した日々を克明に記録したもの。
どこからでも読める。
神保町の東京堂書店で新刊を立ち読みし、いったん買うのを控えた。何しろ分厚いので、買っても積みっぱなしにしてしまいそう。価格も二千円以上で高めだし。
何ヶ月後か、白山の古本屋で再発見し、五百円ほどで入手できほくほく(笑)。
ただ、結局やはり、しばらく本棚に眠らせてしまった。
最近、少しページをとばしつつもほぼ完読した。
本に収められているのは1992年頃から1995年頃までの競馬場通いの日々で、著者が丹念に山口瞳の競馬スタイルを記録している。また、山口瞳のエッセイからの引用も多い。
章立てとしては、
第一章 一九九二年日本ダービー 東京競馬場
第二章 一九九二年天皇賞・秋 東京競馬場
というように、レース毎に章が分かれており、読者としては自分の思い入れのあるレースの章から読んでも楽しめる。それぞれ、そのレースに至るまでの前哨戦や、そこでどういう馬券を買ったか、一連の流れも描かれており、その流れを追うのが楽しい。
もちろん、本全体をつづきものとして読んでもいいと思う。
競馬を十年間続けるって大変。
本の帯に書かれたこの言葉、山口瞳の言葉かと思ったらそうではなかった。
山口瞳が早稲田高等学院で英語を習った飯島小平氏(英文学者で早稲田大学名誉教授)の競馬格言のひとつだそう。
山口瞳は東京競馬場通いの中でこの飯島先生と再会する。
そしてこの飯島先生が”競馬場の鉄人”であり、当時すでに八十歳ほどの高齢、かつ茅ヶ崎在住でありながら、中山・府中の両競馬場の開催日には朝六時起きを厭わず欠かさず電車で通い続けたという。
土日の朝六時起きと長時間の電車移動。
これを義務のように感じたらやってられないだろう。
楽しくないとやってられない。
その楽しさを長期にわたりキープするには、努力や自制心が必要になるのだと思う。
これも飯島先生の格言。
まるっきり予習せず競馬場に行って馬券を買っても面白くない。
かと言って、やりすぎは疲れる。予習は真面目にやろうと思ったらキリがない、いい加減でとどめておかないと、早起きできずリズムが崩れる、あるいは、寝不足では当日のカンが冴えない、という感じなのかなと解釈した。
どんな趣味でもそうだけど、楽しさがつづかないと長続きはしない。
そして、競馬は、努力の方向を間違えると、すぐにつまらなくなってやらなくなってしまうものだとも思う。
自分はと言うと、一応25年以上競馬をやってきて、マンネリになってしまった時期はあったが、それでもG1シーズンはほぼ欠かさず見てきた。(日本にいなかったり、財布事情により買えない時期はあったが。)
飽きもせず続けられていると言うことは、自分なりに良いバランスでこの趣味と付き合えているのかな、と思う。
山口瞳、最後の馬券
本の内容に戻ると、この本の終盤の章は以下のようなタイトルがつけられている。
第七章 一九九五年オークス 慶應義塾大学病院
終章 一九九五年九月二日
山口瞳は1995年の8月30日に亡くなり、9月2日が告別式だった。
オークスの時期には入院を余儀なくされており、競馬場通いができなくなってしまった。それでも、病院の許可を得て後楽園のWINSに行っているのはさすが筋金入りの競馬ファンであるが、、
69歳で亡くなったのは、少し早過ぎる気がする。
前出の飯島先生は87歳で亡くなっているが、80過ぎで早朝六時起きの競馬場通いをしていたようで、まさに競馬場の鉄人。
自分もできたら鉄人になりたいと思うが・・こればかりは、どうなることやら。(最近健康のためにランニングはしているけど。)
山口瞳の最後の馬券は、著者が代理で購入した、亡くなる十日前の新潟競馬の最終12レースだったとのこと。
結構穴を狙っていて、十番人気のロフティフラワーの単複と馬連総流し。
結果は四着というから、惜しいところだった。
ただ、馬券を代理で購入してくれる友人・知人がそばにいると言うのは、幸せなことだと思う。
それに、この著者の記憶の克明なこと。如何にY先生を慕っていたかがわかる。
最後に、92年の秋の天皇賞の検討時の会話を引用する。こういう何気ないやりとりをしている時が、実は競馬ファンにとっては至福の時なのだと思う。