『ドグラ・マグラ』(夢野久作・ちくま文庫)の感想
タイトルは「幻覚作用」という程度の意味らしい。ホラー・ミステリ小説家の夢野久作が渾身の力を注いだ長編である。構成・内容面のそれぞれで不思議な展開をしているので、感想を書く前にそれを軽く整理してみたい。
章構成はないが、本作を6つに区分する。
①記憶喪失の「私」が大学病院で目覚め、若林博士という人物から自分が陰惨な殺人事件と発狂した美少女に関っていることが伝えられる。そして記憶の回復が、死んだ正木博士の「実験」の成功に結びつけるなどと語られる。「私」は手渡された正木博士の残した遺稿群を「無我夢中」に読み始める。(p9-131)
②正木博士のキテレツ精神科学論3篇。「アホダラ経」や「新聞談話」や「奇妙な学位論文」という形で語られる。ニュートラルな要約をすると、1現代の精神病院は悪であり、その「解法治療」が求められるということ。2脳が物を考えるのではなく、身体の細胞が精神を生み出していること。3胎児は先祖と祖先から遺伝された細胞によって、生物と人類の歴史を夢みることが主張される。(p132-246)
③正木博士のながーいふざけた文体の遺言。「解法治療」の事件による失敗と、殺人事件がある少年が母と婚約者を縊死させたものであること。それらが「暗示」によって行われた疑い。そして少年が殺人の「心理遺伝」をもった一族の末裔であることなどが語られている。(p131-246)
④「私」と正木博士の対話。正木博士が死んだというのは若林博士の思惑であると語られる。ここで正木博士が「私」に突きつけるのは、「私」が殺人事件の少年と別人であるという主張である。「私」はそうであるともそうでないとも言えない狭間に立たされる。(p429-528)
⑤解決への展開。最初「私」は正木博士と若林博士の思惑を「双子のどちらが殺人を犯したかの鑑定」であると判断する。次に「私」は正木博士が自分か若林のどちらかが少年の父親であり、全てをたくらんだ「犯人」となりうることを聞かされる。正木の実験に異議を唱えつつも、「私」はそのとき、少年の立場に立つことで、少年の父親が正木博士であること。同時に若林(W)=正木(M)の同一人物であると推理して、表に飛びだす。(p528-613)
⑥とはいえ、「私」が誰であるかはいまだ答えがない。大学病院にもどると、そこはもぬけの殻。新聞を見ると正木博士の死や「解法治療」の無差別殺人、少年と重要な関係のある寺の焼失事件などがデカデカとした見出しによって語られる。今度は若林博士の陰謀などと推理していると、幻聴、幻覚のようなものを感じる。その中で、「私」は「ソックリの顔」に出会い、作品冒頭に鳴っていた時計の音の中で意識を失う。(p613-644)
このように読んでいくと、本作の謎が(A)「私」は事件の少年なのか、違うのか。(B)「私」の記憶喪失の理由は何か。そこに何か思惑があるのか。という点が重要な謎として浮かび上がってくることが分かる。それらの重要な解答を一切丸投げして本作は終わる。そのために、細かな部分の一つ一つが未定の謎として浮かび上がってくることになる(たとえば①で「ドグラ・マグラ」という手記の存在が語られていることナド)。こんなドグラ・マグラが「アッハッハッハッハッハッ。どうだい。痛快だろう。超特急だろう。絶対的ブラボーだろう。全世界二十億の脳髄をダアとなすに足る超特急探偵小説だろう。」(p194)みたいなイカガワシイ文体で語られていくので、かなりげんなりするのだが、幻覚作用になんかやられるものかと思いながらやられてしまう感覚は確かにやばいと思う。
解読を一つ。上のように区分したときに、不自然な場面が一つある。それは⑤の最後で表を飛びだす理由である。ここで「私」が表に出なければ物語に解決のチャンスはあった。彼はその理由を「奇蹟(きせき)」と呼んでいる。「それは一つの奇蹟であったとしか思えない……或る目に見えぬ偉大な力が、空中から手を差し伸ばして、私を自由自在に引きずり廻していたとしか思えない。それほどに、不思議な出来事であった」(p613)というパニックは、少年の母の和歌を読むことで生じる。これは巻頭歌「母親の心がわかって/おそろしいのか」(p8)と呼応する。けれどその「母親の心」は、けっして「おそろしい」ものでない。「子を思ふ心の暗(やみ)を照しませ/ひらけ行く世の智慧のみ光り」(p612)。「私」は母の愛から逃走している。それは母の愛がもたらすはずの幸福から、自分が引き離されている現実への帰結だろうか。この現実の残酷で「偉大な力」が、「私」を母の愛から、記憶から、現実からの逃走を許す。「……何もかもが胎児の夢なんだ……」(p641)という述懐(じゅっかい)はその逃走の最終形態である。星屋はここに「私」の無責任を感じる。ここで「私」は母の愛を全身に受けながら、それに応えることの不能にたてこもっている。「私」が何ものかの「偉大な力」に翻弄(ほんろう)されて遭遇する『ドグラ・マグラ』の全ての悪夢は、愛に応えることで解決を選ぶことができたと思えるのだ。
(ちなみに、小説家森博嗣は『森博嗣のミステリィ工作室』で『ドグラ・マグラ』の読解にひとつの仮説を立てている。その内容は示唆にとどまるが「作中主人公が気づかぬうちに入れ替わっている」というものだと思う。そうだとして、その切れ目が分かったとしたら本当にすごいと思う。)