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吉本隆明『共同幻想論』(河出書房)の感想

 「序」で、「政治的な解放というものは、ほんとは非常に部分的な解放にすぎないから、文学みたいに少なくとも個人幻想、つまり人間が人間であるというような、人間の存在が人間の存在であるということ、そういうことの根底を含む問題に対しては部分的な影響力しか与えられない」とあり、政治的な記述の限界を超えた、人間の根幹にあたる問題として国家論を扱うとしています。
 ただし、その試みは『古事記』や『遠野物語』を分析の対象としていることからわかるように、現実の政治の分析を直接は扱っていない。「序」とのこの温度差こそ「難解」として感じられる一番の理由だと思います。ぎゃくにそこを気にしなければかなり明快に論旨がたどれる論でしょう。
 本論は、「禁制論」「憑人論」「巫覡論」「巫女論」「他界論」「祭儀論」「母制論」「対幻想論」「罪責論」「規範論」「起源論」の11からなっています。
 この並びからイメージされるのは、前半は『古事記』『遠野物語』のオカルト的な「幻想」を分析対象にして解読していき、後半で実際の共同体の条件としてそれらをまとめて国家の幻想的なあり方を記述しようとする目論見だと思います。
 以下に各論を引用による紹介を書き、タイトルと「幻想」との関わりを見ていきましょう。

「禁制論」「心的な風土で、禁制がうみだされるための条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちにもかんがえているときである。この条件は、共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想も入眠とおなじように現実と理念との区別がうしなわれた心の状態でたやすく共同的な禁制をうみだすことができる」とあります。個人と共同体を重ねつつ、無知によって共同体の条件の禁制が生まれるとします。

「憑人論」
「個体の入眠幻覚が、共同幻想に憑くことをやめて共同体のなかにある家筋やべつの個人に憑くようになると、共同幻想は遊離されてくる」とある、前の「幻想」の共有過程を描出します。集団パニック的な、パニックがあるからこそ集団が集団となるみたいな論法です。

「巫覡論(女のシャーマンと男のシャーマン論)」は、「狐使い」の話を描いて「そこに村落の共同幻想にたいして村民の男女の対幻想の共同性がもっている特異の位相が存在する」と断定します。単なる憑依と女が関わる場合を分節しています。おそらく、前の章を踏まえて、作者の中でシコリが残る部分に向かっています。

「巫女論」は、「口寄せ巫女がシャーマン一般とちがうところは、自己幻想よりも〈性〉を基盤にした対幻想を本質とする点である」と、前の章を受けつつ、現実的にあらわれた幻想の性質を見ようとしている模様です。

「他界論(あの世論)」は、「わたしたちは〈死〉の様式の志向的な類型をとりだすことができるはずであり、それはいわば〈他界〉概念の構造を決定するはずである」とあります。個人・対・共同の幻想を生む根幹の「構造」を考えようとしています。そこから繰り出される「真に〈他界〉が消滅するためには、共同幻想の呪力が自己幻想と対幻想の内部で心的に追放されなければならない」という指摘は、今回読んで一番面白かった部分です。私たちが共同するなかに〈死〉の幻想が根底的にあるという指摘です。

「祭儀論」は、「対幻想の対象である女性が共同幻想の表象に変身するという契機がここにはなく、はじめから穀神が一対の男女神としてかんがえられ」ていると、神という幻想の中にある、「女性の位置づけ」を改めて問題にしています。「女」を考えるのは有意義なのかもしれませんが、開始時点の行論と重ねにくくなる展開です。

「母制論」は、「原始的〈母系〉制社会の本質が集団婚にあるのではなく兄弟と姉妹のあいだの〈対なる幻想〉が種族の〈共同幻想〉に同到するところにあ」るとします。一般的な「共同体」と「〈母系〉制社会」との区別を考えようとして、「集団婚」の中に複雑な「カップリング」をみます。

「対幻想論」は、「フロイトは集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)の関係を集団と個人の関係とみなした。しかし男・女のあいだの心は、個人の心ではなく、対となった心である。そして集団の心と対となる心が、いいかえれば共同体とそのなかの〈家族〉とが、まったくちがった水準に分離したとき、はじめて対なる心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題がおおきく登場するようになったのである。もちろん、それは近代以後に属している〈家族〉の問題である。」と、3つのタームの絵解きを含むまとめの流れがあります。それはヘーゲルとフロイトが社会と家族の相似性に基づいて個を分析したものの精緻化であるとも見えますが結構むずかしいです。ただし、作者は「対幻想が全ての着火点である」と意識しているようで、そのカンからフロイトを超えた手ごたえを得ていることは間違いないでしょう。

「罪責論」は、「男・女神が想定されるようになったとき、〈性〉的な幻想のなかにはじめて〈時間〉性が導入され、〈対〉幻想もまた時間の流れによって生成するものであることが意識されはじめた」とあり、瞬間的な性が共同体と結びつく〈対〉幻想の発祥とそのひろがりを語っているように思います。ただ、「対幻想」から何が生まれるかは未記入なのと、「対幻想」と記号が変わるところがあいまいな印象を受けます。この章はフロイトの「トーテムとタブー」の向こうをはっているので、読むならおすすめです。

「規範論」は、「経済社会的な構成が、前農耕的な段階から農耕的な段階へ次第に移行していったとき、〈共同幻想〉としての〈法〉的な規範は、ただ前段階にある〈共同幻想〉を、個々の家族的ありは家族集団的な〈掟〉、〈伝習〉、〈習俗〉、〈家内信仰〉的なものに蹴落とし、封じこめることによって、はじめて農耕法的な〈共同規範〉を生み出したのである」とあります。これまで論じていた「共同幻想」と具体的な共同体との規範を切り離しています。これまでの論の射程を下方修正している箇所で、着地を挑んでいる箇所と評価もできます。

「起源論」は、「『古事記』の神話的な時間がプリミティヴな〈国家〉まで遡行する時間性をしめしていることが重要なのだ」と、再び「神話的(幻想的)」なものの位置づけの大切さを説こうとしています。「時間」の意識が共同幻想や全てのみなもととなるというゆるやかな論のまとめがあるとも解読できます。時間意識のなかに性が死が他者が流れ込んでいくさなかに全ての生の基盤が生まれる。吉本隆明の時間論を私は寡聞にして知りませんが、続きを読んでみたかったと感じる発想です。


 まとめましょう。『共同幻想論』は「対幻想」という具体性を感じるイメージによって、ヘーゲルやフロイトの国家、家族論を書きなおそうとした試みだと思えます(その辺りのイメージに明るいと読みやすいでしょう)。ただ、用語自体の魅力に比べて、定式化はそれほど強くない。そこにスキのある著作だとは思います。
 性的幻想みたいにリアルな「欲望」の展開によって世界を記述しようとする印象には瞠目します。この欲望の手ざわりによって、ヘーゲル・フロイトを超えようとして、文化人類学者のレヴィ・ストロースと共振している記述の本気さはがっつりとした読みごたえがあります。いまも私たちも何らかの幻想のさなかに生きていると感じるから。

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