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心が世界を更新することのポテンシャルについての私見

 むかし友人の演劇の感想をネットに書いたときに、「だれかを救うことが自分を救うことになるのはなぜか」というテーマを考えたことがある。これはけっして特殊な現象ではないと思う。たとえば「だれかを応援することで、自分自身が応援されていた」という話を聞いたこともあるし、CMのコピーでもみたことがある。

 この現象に人間の根幹にある大切なものの駆動を感じた。そこで私はこれを「世界の更新」というキーワードで描いてみた。わたしがだれかを応援することは「わたしが応援されていない現実」をこえて、「ひとが応援されることが正しい世界」を上書きする。自分自身の行動が変えた世界の「意味」を受けとるのだ。

 その新しい世界で私は(まだ)応援されていないし助けられてはいない。だが世界の可能性としてそれがあることを知っている。それがひとの精神をふるい立たせる生きる力になる。そんなことを書いた。相手へのひたむきな献身というのもむろんある。それと同時に、自分へフィードバックする「更新された世界」があると考えた。

 内観として、私はいまもこのことが存在する可能性があると思っている。だが、ここで新たに書き加えたいのはべつのことだ。「世界の更新」は人間のうつくしい心のためばかりではないもうひとつの可能性だ。可能性を重ねた話で恐縮だが、ひとが悪をすすんでおこなう場合にも「世界の更新」は駆動すると思うのだ。

 具体例は略す。たとえば、だれかの心を苦しめるときの「世界の更新」を仮定してみよう。わたしはだれかの心を苦しめている。そのことは「わたしが苦しめられる現実」をこえて「わたしを除いた、だれかだけが苦しむ世界」を上書きする。悪の瞬間に苦しんでいなければいないほどにその世界の意味は強固なリアリティーをもつだろう。

 こうしてこの世界には善と悪があるばかりでなく、人間を対称性のなかでとらえた「更新された世界」たちと、人間の非対称をうみだす「更新された世界」たちが刻一刻とうみだされていく。それはあくまで仮定にすぎないが、人間の心の精妙な現象は、愛のためだけでなく悪のためにも駆動しうるということを思ったおどろきをここに書いておきたい。


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