「見る自分」と「見られる自分」
最近は直感がよく働くようになったと感じる。というよりは,直感は今までも働いていたが,それをきちんとキャッチできるようになった気がする。私たちが生きているのは過去でも未来でもなく,現在である。これはいろんなところでよく言われる。当たり前のことである。
当たり前のことではあるが,意識の上では現在に集中していることは少ない。これはもしかしたら私だけなのかもしれないが,ある行動をしていると基本的には次にやることを考えてしまっている。未来志向といえばそうなのかもしれない。
一方で,過去のことを振り返ってしまって目の前のことに集中できないときもある。そういう意味ではやはり未来志向ではない。単に「現在に集中できない」人間である。そしておそらくこれは多かれ少なかれ誰にでもあると思う。
私の言う「直感をキャッチできるようになった」とは,その時「現在」に頭に浮かんだことをきちんと捕まえて,書き「留める」ことができるようになったということである。もちろん「現在」というのは絶えず流れていくもので,これを書いている間も無数の「現在」が流れていっている。
それに,常に現在に留まっていられるわけではなく,過去のことを振り返りもすれば,未来を考えることも未だに多い。それはそれで,それが「できる」のだから否定することはないと思っている。しかしその中で浮かぶ「現在」の思考=直感を逃したくもない。おそらくその直感を逃さないかどうかで,未来は少しずつ変わっていく。
体験的に書けることは,「過去」「未来」を見ている風景と,「現在」を見ている風景が違うことである。
「過去」「未来」の自分を思い描いているとき,「自分」は客観的に「見られている」。つまり,自分が過去や未来の「自分」を他人的に見ているという感覚である。一方で,現在の自分は,どうやっても自分を客観的に見ることができない。目の前に映っている風景がすべてで,そこに自分は映っていない。これが「主体的」な状態なのではないかと思う。
思い描く「時間」によって,自分の「見え方」が変わる。「過去」と「未来」を考えているときは,自分の全身が想像でき,自分は見られている。一方で,「現在」の自分が自分を見ることはできず,自分はただ目の前の風景を見ている。時間の認識が変われば空間認識も変わっていくことを考えるとおもしろい。
人に会ったり,メディアに触れたり,社会で生きているととにかく「見られる自分」ばかりが先行してしまう。そうすると自分の意識もそちらに引っ張られる。見られる自分は「評価される自分」と結びつき,人の目を気にし始める。そのうち,その評価を上げることが「うまく生きること」だと思えてくる。
しかしながら,そこで置き去りにされるのは「見る自分」「評価する自分」である。他者の視点を気にするあまり,疲弊して精神を病んでしまう。だから,そのストレスを解消するために,たとえばカラオケで歌う。これもやりようで,気を遣うようなカラオケでは意味がない。「見られる(と意識している)自分」から逃れる必要がある。だから気の置けない仲間と行くか,ヒトカラが流行る。
あるいはお酒を飲む。アルコールが「見られる自分」の意識を徐々に遠ざけていく。愚痴を言う。これは「評価される自分」から「評価する自分」への転換である。
趣味に没頭することも能動的な活動としてやはり良いものである。これはもうできる限り「没頭」できるものが良い。「ただこれが好き」という気持ちは何より大事なものだと思う。
また,最近は筋トレなどフィットネスが注目されているが,これも能動的な運動として良いと思う。ただし,アプリなどと連動して「計測」が発展しているのは,テクノロジーの面から見れば良いのだが,そこに「見られる自分」が出てくるのも自覚しておいた方が良いように思う。右肩上がりに成長しているうちは良いが,数字が下がってくるとそれはそれでストレスになりがちである。数字を使うということは良い面と悪い面がある。そういう意味では,「〇日継続」なども同じかもしれない。下手をするとストレス解消や成長のための道具に「使われる」ことになる。
ストレスから逃れる方法は何でも良いが,大事なことは社会生活の中で置き去りにされがちな「見る自分」を取り戻すことである。経営学周りを見ていると特にそう思う。「一流の経営者」「最高のサービス」「最高のチーム」「顧客志向・顧客満足」「プロフェッショナル」といったワードで意味されるものを達成するには,強烈に「見られる自分」への自覚が必要である。
そしてそれが善であるとされれば,人がだんだんと病んでいくのは当然であろう。でなければここまでメンタルマネジメントが流行ったりしない。
そんな中で自分を見失わずに,かつ社会で生きていくには「見る自分」「見られる自分」のバランスを意識したい。時にはどうにもならない時期があるかもしれないが,逃げることも選択肢に常に入れておく必要があると思う。それは「弱いから」ではなく,単に「バランスがおかしいから」である。それを決めるのも常に「自分」でなくてはならない。
もう一つの処方箋としては,「見る自分」も「見られる自分」も一緒にしてしまうことである。これは両者の時空間が重なり合う。過去も現在も未来も同じ場所にある。そこには評価する自分も評価される自分もいない。相対的な価値観がなくなり,あるのは絶対的な自分だけである。悟りへの道は険しい…。
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