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明るい人。
また大きな虫が部屋に出た。帰宅後、夕食をとろうと思ったら何か大きめの虫が飛び始めた。猫がその音に反応して天井を見上げているが、前回カナブンが出た時同様、傍観を決め込んでいる。虫が止まって恐る恐る見たら、ハチだった。前回のカナブンの時同様、最新の注意をはらって確保。確保したタイミングで猫が関心を示し、袋にじゃれついたせいで一回逃げられたが何とか対処した。今日は一日中外で働いたけれど、この一件が今日の一番の私の働き。労働って、お金を貰う以外のことがたくさんあるし、そこで判断するのってやっぱり違うね。
それにしても、夏の間ベランダで種から育てていた朝顔も、想像以上に種をつけているから、虫さんたちがたくさん居てくれるのだろう。新幹線の主要駅があるような都市で暮らしているとは思えない。家の周りが田んぼや畑という環境で育った私にとって、これくらいがとても心地が良い。
淋しさの話を昨日書いた。淋しさを抱えた過去を持ちながら、今日まで暮らしている。自分が他者にどう映っているのかは分からないけれど、今まで出会った人で、何か抜けたような明るさを持っている人は、たいてい過去にとてつもない淋しさや喪失を経験している気がする。その明るさは、陽キャとかそういう感じではなく、「一度諦めたことのある人」という感じがする。大好きな本、『思いがけず利他』の中にも書いてあった気がするけれど、「自分には何もできない。」という事を、身をもって真に経験したことのある人は、明るい。「自分」がない。それは芯がないという事ではなく、寧ろある。その予定はなかったけれど、「受け入れるしかない現実」に出会った時、自分の無力さを頭ではなく、体で気づく。(『思いがけず利他』の中では、そういう人に浄土真宗でいわれる「他力」がひらかれていくと書いてあった。…読み返したくなってきた。)
そういうことを繰り返していくうちに、自他の境界がひけるようになった実感もある。
そういう明るさを持っていない人に共通していることにも少し気づいているのだけれど、今日はまだやることが2,3個残っているのと、まだうまく文章にできない感じがするので今日はここまで。
しかし、今日は猫のかわいさがえげつない。毎日見ているというのに。