べにこ/刺繍屋の頭の中と日常
日常のこと、雑記
観た映画の記録
残しておきたいと思ったRadioとPodcastの記録。
残しておきたい本の記録。
この間読み終えた「大阪」(岸政彦 柴崎友香共著)。その中の岸さんの章に、「大阪で子供を育てたかったと思う。」というくだりがあった。岸さんは、もし自分が結婚当初に子供をもうけていたらこれくらいの年齢になっていただろうなという学生を見ると、自分にはなかった未来を考えてしまうというようなことを書かれていた。 はじめこのくだりを読んだ時、私はそういうことをあまり思わないな、と思った。例えば、もし私が30歳で子供を産んでいたら、その子供は今中学生になっている。たらればを普段からあ
占星術をほぼ独学ではじめてから数か月になる。占いというより、自分の生きていく上での指針のようなものを得られるような感じがして、暮らしに役立てている。 日付が変わる前の昨日、11月20日は冥王星が水瓶座に入って、いよいよ風の時代が本格化すると言われていた日だった。その前の日、ビールと日本酒を楽しんでいたおかげで朝はあまり早く起きられず、だらだらと起き出して前日の片づけをするところからの始まりだった。何かを考えようと思ってもなんかぼんやりしてしまうここ数日だった。昨日もその
祈りって大切だと思う。言葉はこういうことにどんどん使っていきたい。 あなたが今日も、穏やかで幸せでありますように。イライラしたり、自分を優先できなかったりすることがありませんように。
肌寒い。今日は昨日よりも一段と寒い。電気ストーブをつけている。エアコンのフィルターも掃除したけれど、まだ、ガマンしている。猫も寒いのか、ペラペラの耳が冷えている。猫は両手で頭を抱えるようにしてから体を丸めている。敷いてある毛布とシュラフの上で。よく眠れるらしい。私も猫のように、思うままに過ごしたい。それを禁じているのは何なんだろう。 さっき、市長選挙の期日前投票に行ってきた。今回は戦略的投票をした(つもり)。それから少しの心配事。考えているだけだと、煮詰まるので書き出した
今日の私は空っぽ。朝からずっと空っぽ。 特に何があったという感じではなくて、何を書こうとか、何かをしようとか、そういうことがあまり思い浮かばないまま夕方になっていた。風の時代への移行目前の一日として、なかなかいいかもしれない。 まず朝は、めずらしく10時くらいまで寝てしまった。今日がゴミの日じゃなくて本当に良かった。 昼は昼で、ごはんも食べるのを忘れていて、さっき買い物に行った時に買ったパンを食べただけ。 夜は人が家に来るので今までつまみやら鍋の準備をしていた。
人それぞれで良いという大前提はあるのだけれど、それでも気になることがある。最近のそれは「つながり」とか「絆」とか「ご縁」とか。それぞれの言葉自体には違和感は感じないけれど、それが外に向けて頻発されることにしんどさを感じる。これなんだろう。 私自身も、他者との「つながり」の中で暮らしていて、それがなければしんどい局面がたくさんあると思う。けれどそれを対外的に文字にすることって必要かなっていつも思う。私は色んな意味でこわくてできないし、されているのをみると距離をとりたくなる
尹雄大さんの著書「聞くこと、話すこと」を読み始めた。「はじめに」から、良い。料理やスポーツが出来るようになりたいと思った時、人はまずやってみて、失敗や改善を重ねていく。けれど、ことコミュニケーションとなると、何故か失敗してはいけないと思ったり、はじめからうまくやりたいと思ってしまう。尹さんも「どうしたらうまくできますか?」という質問をよく受けるらしく、そのことがコミュニケーション=うまくやらないといけないという人々の前提にあることを示している。 実際、人と話していてそう
さっき、帰ってきたら猫が私の駐車場の車止めに沿って伏せして待っていた。待ち伏せされていると勘違いしそうになる。猫はお腹が空いているだけだ。だとしても嬉しくて、そのあと行こうと思っていた買い出しを遅らせた。猫中心、猫が軸。何回思っても、書いてもずっと思う。猫の素晴らしさよ。 風向きが良い。これも私の体感。色々と、良い方向に向いている。もうすぐ風の時代が本格化するし、そういうタイミングの気がする。すべてを星に頼るというよりかは、手引きのような感じで、自分の暮らしに照らしてい
さっそく昨日、帰宅後に新しい土鍋でご飯を炊いた。炊飯に特化した形で、今まで使っていた土鍋より早く米が炊ける。蓋が重めに作られていて、吹きこぼれすぎないようにされていたり、丸い形がお米への過熱が均等にいくようにされていたり色々考えて作られているんだな。かといって、便利なこちらばかりを使うことにはならない。それを使うだけでワクワクするようなキムホノさんの土鍋も私には欠かせない。しかし、この間タイマーを導入した時にも思ったけれど、やっぱり専用に作られたものというのは良い。生活のす
2年ほど、キムホノさんの土鍋を使っている。大きさはお米だと1.5合炊けるくらいの小ぶりなサイズで、炊飯器を持たない私は炊飯から、冬は鍋料理、スープなどもこれで作る。一人暮らしの調理器具の数って、どれくらいが正解なのか分からないけれど、もう一つ土鍋をむかえることにした。 一人暮らしをはじめた時、最初に買ったのは大きめの両手鍋とフライパン、ホーローの片手鍋。テフロン加工が剥げて買い替えたフライパン以外は、両方今も使っている。フライパンは鉄のにした。野菜を焼くだけでも、おいし
社会学者・岸政彦さんと小説家の柴崎友香さんの連載をまとめた本、「大阪」を読み終えた。最後の柴崎さんの章で、親の話が出てきた。その中に”親を哀れと思ったら大人になったということ”という一文があった。自分に照らしてみた。私はまだ、親を哀れと思ったことはないかもしれない。 けど、近い感情はある。私みたいのが子供で、さぞかし困っただろうなということ。申し訳ないとは思わないけれど、大変だったろうな、気の毒だなと思う。両親とも20代の時に子供をもうけて、おそらくまだ自分も社会に馴染め
ニュースで、ふらついたアナウンサーを支えたキャスターに惚れるみたいのを見たけれど、そーゆーの、いいよって思ってしまう。優しいとかなんとか書かれていたけれど、当たり前ではないかと思う。目の前にいる人が、体調不良になった時、自分に出来ることをとっさにする。たぶん考えるよりも先に体って動くし、それが出来ない時って、その人が自分のことでいっぱいいっぱいになっていたり、ストレスフルになっていたりするだけ。動けた人が優しくて、そうできなかった人がそうではないということではないと思う。
猫が押し入れを気に入りすぎていて、まったく添い寝してくれなくなった。たとえ寝返りがうてないにしても、猫にぴとりとくっつかれて眠るのは日常の中で一番尊い時間と言ってもよいかもしれない。だからちょっと淋しい。けど、押し入れの方が猫はぐっすり眠っているし近づくと一人でゴロゴロ言っている。幸せそうなので、これが良いのかもしれないと思う。人間の望みなんて、猫に押し付けて良いことなんて一つもない気がする。やっぱり猫の前では服従。今日も完敗である。猫以上に、太刀打ちできない相手っていない
今日も一日おわる。 人の感性とか緩さとか、本当に人それぞれある。けど誰かと接する時にお互いそれぞれの当たり前とか常識ありきで話を進めるから、もう随分話が進んでしまった時に、お互いの前提がまったく違っていることに気づく。そういうことってたまにあるよな、と思った日。 少なくとも自分は、知らないうちに自分の中の常識が外れないようにまともでいられるように、学びをやめないようにしなければ、と思う。そうやって気を付けていても、個人で仕事をしていると、意見してくれる人は前に比べて
数年前から自宅では菜食中心。たまに魚や平飼いの卵を食べる。あとは出汁に入っているお魚くらいで、基本的には穀物と野菜、キノコ、豆を食べている。確かコロナ禍に入った2020年くらいからだからもう4年そういう食生活をしている。 きっかけは環境問題に触れたこと。気候危機への対策としてヴィーガンの食生活があること、ヴィーガンの食生活をしている人にも、動物愛護の観点と、環境問題の観点両方あることを知った。当たり前のように動物性たんぱく質を摂取して暮らしてきたけれど、当たり前を疑う
急に寒くなった。手足が冷える。布団から出られない。暖房をつけるには少し早い気がしてまだ耐えている。何に耐えているのかは分からない。こういう時、猫の温かさがありがたい。寒くても、冬が好きである。服も秋冬の方が好き。暖房の準備(フィルターの掃除)をそろそろせねば。あと、寒くなってきて水分の摂取量が減っていて、そのせいか体が巡っていない感じがある。今日から意識的に水を摂ろう。 昨日は久しぶりの遠出。おいしいご飯を食べて、その土地の商店街を歩いたのち、その土地の本屋さんで本を買