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【人物月旦 01】義父の話


気付き(プロローグ)

人は出会った人と交流があることで様々な影響を受けていると今更ながら再認識することが多くなってきました。若かった頃は自身が影響を受けていることに気が付かないことがほとんどだったように思います。でも今、振り返れば、当時、その人の考え方や生き方に接したことで、後天的に自分の考え方に影響を与えたんだなと思えることがいくつも思いつきます。

出会った当時はとても印象の悪い人として記憶に残っている人でも、その後に知ることとなったいくつかの客観的事実やその人を知る別な人からの人物評を間接的に知ったりすることで、それらのことを総合的に組み合わせて再評価すると実は人格的に優れた人だったなんていう逆転現象もありました。その当時の自分自身の方が視野がとても狭く人格的に未成熟だったために、ごく一面的なシーンだけを切り取って評価していたことは明らかで、おそらく相手を傷つけてしまったシーンもあったと想像します。そこに対しては反省しかありません。この年齢になって遅ればせながら、だんだんと自分の至らないところや度量の小ささに少しずつですが気が付けるようになってきました。これも成長の一つだと前向きに捉えていこうとも考えるようになりました。

「人物月旦」について

義父と先週旅行に初めて行った時に改めて義父に対しても整理して考えることがあり、それきっかけで、こんな文章を今書いているわけです。
せっかくnoteも始めたし、良い機会なので「トラベルノート」とは別なシリーズ「人物月旦」として、今まで出会った私の記憶に残る人たちのことを再評価を含め、書いていきたいとおもいました。その人のことを書くことで頭の中で客観的な整理ができてさらに尊敬できるようになったり、印象の悪かった人も再評価して良い印象に逆転する事だってあると思います。もちろん、個人を特定できてしまうようなことまでは書けませんが、これからの自分にプラスになると期待して書いていきたいと思います。初回の話は、最近いった石垣旅行の時につぶやきでも触れた義父の話を書くことにしたいとおもいます。


義父の言葉(ここから本編)

妻の父(義父)はずっと自営の不動産業をやってきた人だ。その義父が手術不可能なステージ4の肺がん告知を受けてから2年ほどが経ちました。私が聞いている義父の人生は、過去バブル期に会社を清算する大きな失敗があったが、そこから見事に復活した人だ。今は、決して大きな会社ではないが、継続的かつ、安定した収入を得られるビジネスモデルを独自に構築している。義父がよく私に「商売は仕事に対して感謝されてお金を儲けられるのが一番良いこと。いつも相手の立場にたって考える事がそこに行くための近道だよ」と言ってくる。これには誰も否定する人はいないと思うし、皆そうなりたいと願っているはずだ。しかし、なかなか言葉通り実行できる事ではない。義父だから言える記憶に残る言葉。義父の普段やっている仕事をみれば、顧客と何十年に渡るお付き合いになることが多く、そのことは彼の築いてきた信頼関係なしにはあり得ないビジネスモデルだ。そんな義父から感じる説得力は、言葉どおり実践してきた人だからこその言葉の力だと思う。

義父の言葉の力は母親譲り

少し脱線するが、義父の亡くなった母も私は尊敬している人のひとりだ。存命の時は九州の片田舎に一人で住んで農家をやっていた。2度程、妻と泊りに行ったことあったが、御年83歳にして政治や経済にも興味があるような博識でしっかりした語り口調の人だった。その義父の母も、ほぼ初めてあった私に対して仕事への向き合い方について、義父と同じような話をして聞かせてくれことを覚えている。彼女と話した時間はほんの短いものだったが、未だに彼女の言葉と佇まいが妙に私の心に記憶されたままだ。義父から感じるそれは母親譲りのものなのかもしれない。

義父の胆力から自分の悩みの小ささが見える

義父は、私が聞いている範囲の外形的な状況から察するに、当然苦労も多かったと思われる。義父の辛い時期当時、妻やその他の兄弟にはあまり金の工面等で苦労していることは話さなかったと妻は言っていた。それゆえに妻はそのあたりの事情をあまりよく知らなかった。ただ、最後には会社がなくなり持ち家から賃貸に引っ越すことに発展して、ようやく事情を理解したそうだ。義父はそんな時に妻の母とは離婚し、その後子供を3人抱えて、ビジネスを再起して今に至るわけなのだから本当に大した人だとおもう。自分の日々の悩みなんて大したことじゃない、じゃないか。

妻がうろたえたことで実感できたこと

義父ががん告知をうけたことで、当時、妻は傍から見て分かるうろたえぶりだった。良かれと思って私から楽観的なことを言っても反応はより妻を傷つけてしまうことがあった。どう慰めていいか言葉を慎重に考えながら口にしていた記憶がある。
当時、なにかやれることはないかと大病院のがん相談支援センターにいくつか予約をして相談にいった。義父についてというよりも妻の方が心配で経験談や適切な言葉を紡げる立場から妻の心のケアをできる人を探していた。こんな時は、「5年生存率が何パーセント」とか、ネガティブな情報ばかり目に付くもので、今でこそ思えるが、実際はがん患者の個体差や、がんになった年齢等からも個々人ごとに大きく変わってくることが実感としてわかるが、その当時全てが未経験で只々不安で頭がいっぱいになっていたと思う。
私の海外の友人の母は同じく肺がんのステージ4で、私がその友人と知り合った10年前の時点で友人の母は既に告知を受けてから8年が経過していた。そして結果18年たった今も、年齢相応の元気さで存命している。当時この友人の話も妻にしたが、そのようなポジティブな話は自分事とはとらえる事が出来なかったようだったが今は実感できると言っていた。

強い運気と生命力は自分自身がつくることを実感した。

義父の1度目の抗がん剤治療が終了し回復、2度目の抗がん剤治療も成功し、ずっとがん細胞は小さいまま維持できている。一旦痩せたこともあったが、今は元の体重に戻っている。ただ、その時期に帯状疱疹にかかってしまい、左手の爪が剥がれ、左手が全く機能しないほどに大きな痛手を負ってしまった。それすら、リハビリで回復させており、完全回復までもう一息。更に父は今回の肺がん告知の1年前にも夜中に一人で寝ているときに心筋梗塞に襲われ、気を失う直前に電話し、すぐに救急車で病院に運ばれたことがあった。救命途中で心臓が5回も止まって普通なら亡くなっていたと医者が言っていたくらい生死を彷徨うことも経験している。そしてその後、この経過観測で病院に通う習慣ができたころに、呼吸ができずらいと訴えて医者に行くと検査結果で肺に水が溜まっていることが原因とわかった。そのことによって今回の肺がんが発覚することになるわけで、総じて今振り返ると、義父は、自身の強い運気と生命力で生きている気がする。それは義父の良い意味で義父の性格が作り出している。だからおそらく今後も、義父は病気で亡くなることはないのだろうと今は思える。そして引き続き義父はこれからも私に良い影響を与えてくれると思う。

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