あやふやな愛をあふれる愛に〜あふれでたのはやさしさだった を読んで

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会場では 鼻をすする音が 小さなシャボン玉のように 生まれては消え

消えては生まれていた。 涙が頬をつたってとめどなく流れていたけれど

その時の涙の意味を 感動した なんて一言で済ませることはできないと思った。

初めて寮美千子氏に会ったその日は

寮氏の著書「あふれでたのは やさしさだった」が

出版された日だった(ような気がするもしくは翌日とか)

錦糸町のシルクロードカフェで桒原滝弥氏が主宰するポエトリーリーディングに

ほんとうは全く 乗り気でなかったけれど 参加せざるを得ない状況により


参加した。

(今では、この日の参加こそ私の環境を変えるいちじつであったし、

参加してほんとうによかったと思う)

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(*↑桑原滝弥氏著書 詩集メオトパンドラ)

人の前で自作の詩を読むとか、ましてや、それをパフォーマンスするなんて

引っ込み思案の私には 「ない」と思っていたからだ。

そのポエトリーリーディングに先駆けで 第一幕に寮美千子氏の講演が行われた。

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それまで私は 犯罪した人の気持ちよりも 被害者の気持ちを想うことが多かった。

けれど「加害者になる前は被害者だった」というこの言葉が

胸に刺さった。

「感動したというひとことで済ませることはできないと感じた。

文字通りその時以来、時折、心の中にダイレクトに

「ちゃんと愛している?」と 聞いてくるのだ。

それは自分の産んだ子たちだけでなく、勤務先の生徒についても

どこにいても 突然

「ちゃんとあいしているの?」って、聞いてくる。

そして時々

愛という言葉の定義までさかのぼり 対象は様々に分岐して

「ちゃんとあいしてる?」となり

あいするってなんだろう。と わたしは わたしで

自分の中を深く掘り下げてしまう。

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この本で描かれている愛について私は

親猫が子猫を愛する様子を思い出す。

それは、母性本能からくる愛というか。 この母性本能と言うのはなにも

女にだけある感覚ではなく 男も持っていると思う。

でも、父性本能?とは違う。 

あくまでも個人的な感覚なんだけど

母性って土のような感じ。 対する父性って 砂のような感じ。

土は育てるイメージがある。寛容で 大きな器の印象。

簡単に言うと

そのままのあなたでよいよ!と言う愛。

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↑この本の中で野矢茂樹先生が冒頭

「王子に変身しなくともカエルのままでいられる」 という表現で書評しているが

王子にならなくても帰るのままのあなたを愛している。っていう印象。の愛。

単純に 愛 と言うことばは

広範囲であいまいであやふやなイメージだが、その愛を

母性本能と、あえて私は表現すると

母性本能に根差した生きる上で不可欠な愛が見えてくる気がする。

愛が命を生み 育み  見守り やがてまた 愛を生むのだと感じる。

奈良少年刑務所に収監されている子ども達だけでなく 今育ちつつある子達には

愛情が圧倒的に不足しているように思える時がある。

身近なものから与えられるはずの愛情、

じつは 連鎖的に親が愛情をかけられていないような

愛情の表現がへたくそな場合を含めて。

私も愛情をかけるのがへたくそ。

でもこの本を読んで、また、寮美千子さんの人柄に触れるようになってから

まず、表現していこうと思うようになった。

身近な人に言うのは 

「人が言葉を使うのは 黙っていたら 気持ちが伝えられないからだよ」

「愛していたら愛していると 好きだったら すきだって」

まず自分の気持ちを伝えるのが大切だよという事だ。

そしてできるならぎゅって 抱きしめてあげること。

covid-19のために接触が難しい今

まずは伝えることが大切だと思う。

大好きでも あいしているでも 大切でも。

たった一言が 人を安心させることもあるという事を

わすれないでほしい。

まず 思いを伝える。 すると少し変化がある。

思いを伝えたら 行動に出る。  

じつは 些細なことが一番大切。

声をかける。 一緒に笑う。 一緒に泣く。 

話を聴くことは その人の存在を認める事。

ただ、その余裕があるかないかとか その人の状態も関係あるのかもしれないけれど

自分がされてうれしいことは してあげたらよい。

自分がされて嫌なことはしない。

判断の基準が自分本位になってしまいそうだけど

私は  人をちゃんと愛していきたいと思った。

同じように 人に ちゃんと愛されたいと思った。

★★★★

この後 わたしは

寮美千子さんに 惚れてしまった。


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