アメリカ西部とパミール高原の伝説(Légendes de l’Ouest et du Pamir)
本記事は、Bruno Faidutti氏が2023年10月9日に投稿した「Légendes de l’Ouest et du Pamir」(英題:Legends of the west and the Pamir)の翻訳である。
本noteでは、ボードゲームのテーマに関する記事を比較的多く翻訳しているところであるが、本記事もその一つであり、「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」のテーマに関する記事である。前回翻訳した記事は批判的な意見であったが、本記事はそういった批判的な意見に対する反論となっている。前回の記事と併せて読まないと、その論旨がよくわからないかもしれない。
まあ、内容的にはフェドゥッティらしい。従前の彼の記事を読んだことがあるのであれば、どんな話がされるのかある程度の予想がつくと思われる。
元記事は以下のリンク先を参照されたい。ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリー機能を利用させていただいた。
私はまだプレイしていないけれど、「チケット・トゥ・ライド」のレガシー版が、小さなボードゲーム界隈で非常に評判が高いようだ。Alan Moon、Matt Leacock、Rob Daviauという素晴らしいデザイナーチームに照らせば驚くべき話ではなかろう。このゲームについて私が読んだ全ての文章のおかげで、私はプレイしたくなっている。それに、すぐにこのゲームを手に入れることになるのは間違いない。たとえ、私が、12のキャンペーンをプレイするために固定のメンバーを揃えられるかが疑わしいとしてもだ。けれども、ソーシャル・ネットワーク上ではわずかだけれど、アメリカの鉄道網の発展の描写の仕方について強烈な批判が寄せられている。私は、こうした批判には正当な理由がないと考えている。
(博士号持ちの)歴史家、(社会科学の)教員、(常に最も正統であるとはいえないけれど)マルクス主義者、それに(100個近くのゲームをデザインした経験がある)ゲームデザイナーという立場で同時に話をし、多くの欧米の左派の人たちが誤った敵を選ぶ傾向が強まっていることを強調する機会を見過ごすわけにはいかない。私の言いたいことを280字で説明しきるのが難しいために、ブログを投稿すべきだと思った。このテーマに関して同時にされる3つの議論のうちの1つが、少し違った話題に急に逸れてしまっていた。その少し違った話題というのは、教育的ゲームに対する私の敵意と、私がメッセージ自体に賛同していたとしても、そのメッセージを伝えようとするゲームに対する私の抵抗感である。
「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」におけるアクションは、明らかにロマンティックでファンタジーなアメリカ西部開拓時代の物語である大草原の鉄道という形で行われる。このゲームでは、このことを隠そうとはしていなかった。このゲームの名称は"西部の伝説(Legends of the West, ※日本語版では西部開拓記とされており、やや事実に基づいているかのようなタイトルになっている。)"であり、"西部の歴史"ではない。アメリカの歴史についてほとんど何も知らない私のような者ですら、一目で気づくはずだ。もし、まだ疑義があるとするならば、ルール内に大きな枠で囲まれた段落において、このゲームが西部開拓時代のお約束ごと(tropes of the old west, ※tropeは非常に翻訳しにくい単語であり、便宜的にこのような訳を当てているが、正確な意味を調べたければ、各自でコロケーション等を調査されたい。)に着想を得ており、先住民族と鉄道労働者の双方の人的な犠牲を無視していることが明確に記述されている。逆説的ではあるが、この注記が問題を悪化させたのかもしれない。教員として、普通は、生徒たちが明らかに既に知っていることを話すことで彼らを馬鹿として扱うことが悪手であることがわかっている。他方で、まぁ、誰が自分のゲームをプレイしてくれるだろうかということは正確にはわからないものだ。
こういった慎重に用意された注意書きがあるにもかかわらず、歴史に忠実ではないとか、こういった線路が敷設された土地を所有していた先住民族を取り上げないのは漠然とした人種差別でさえあるとか、鉄道網の建設における奴隷や鉄道労働者に対する搾取を無視しているので間違いなく資本主義礼賛であるとかといった批判を、このゲームは浴びている。このゲームは歴史的であるかのように装っているのではないし、デザイナーたちは、このゲームが明確に決まりきった表現(clichés)やお約束ごとの下に構築されたことを前提としているのだから、これらの批判のいずれにも当てはまるものではない。そして、そのとおり、このロマンがあってちょっとガキっぽいとすらいえる背景が、私がこの新しい「チケット・トゥ・ライド」をプレイしたがっている理由の1つである。アメリカの鉄道神話の嘘を暴くことを目的としたもっと真面目で政治的なゲームも同じく楽しめるかもしれない。けど、私は確信まではしてないし、それは異なる市場のニッチな部分を対象とした全く異なるゲームになるだろう。
「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」において登場するアメリカの鉄道史のファンタジー版は、注意して用いることが必要なのは間違いないが、(※そういったファンタジーが)存在することは明らかで、研究されて分析すらされているものだ。こういった考えが流行する前に、私は、ポストコロニアルのカタン(※日本語訳はここ)に関するエッセイや、鉄道ゲームに関する投稿(※日本語訳はここ)の中で、私は十数年前にこの話題に漠然と触れていた。
私は、ゲームの内の中世のイメージに関する興味深い学術的な研究をいくつか読んだことがある。これらはフランス語圏の話だったし、その主たる対象はビデオゲームとロールプレイングゲームであり、とりわけAnne Bessonによるものだった。あまり広まっていない設定だったとしても、西部開拓時代は同種の研究をするに値するのは間違いない。既にこのテーマを手掛けているアメリカの研究者がいるに違いないし、もし、誰かが論稿を送ってくれるなら、私は喜んでそれを読むよ。
結局のところ、新しい「チケット・トゥ・ライド」の批評が非難している点は、このゲームが歴史に忠実ではないことではなく、歴史に忠実であろうとすらしない、つまり、その設定を真剣な(serious)ものとして考えていないところにある。私は、いくつかの真剣な歴史ゲームを楽しんでいて、直近では「パックス・パミール:第2版」があった。けれども、こういったゲームを歴史の講義と考えたことなんて一度もないね。1850年代の西洋に対する日本の開国をテーマにしたカードゲームのぼんやりとしたアイディアがあるけれど、完成させるとしたら、おそらくもっと皮肉のこもった感じのゲームになるだろうさ。ああ、Cole Wehrleから、既にこのテーマを手掛けていてゲームとも合致しているんだなんてメールが届かないことを願おうか。私が出版したゲームのある棚を調べていると、漠然とした歴史的な設定のものは「Mystery of the Abbey」、「Silk Road」、「Valley of the Mammoths」の3つしかなかった。控えめにいっても、どの作品も真面目な歴史的な内容や表現はほぼほぼないね。
40年間、馬鹿げたファンタジーの設定に基づいてゲームをデザインしてきた歴史家として、ゲームは常にその設定を真剣に扱うべきだという考えは困惑させるものだと感じる。こういった考えによると、平均的なゲーマーというのは、ゲームデザイナーやレビュアーと異なり、いかなる批判的な観点をもつこともできず、ファンタジーと歴史との区別すらできない、臆面のないバカということを暗に述べていることになる。また、こういう考えは、ゲームの価値というのは教育的な用途にあるという考えとも関連してくる。なぜ、私が"教育的なゲーム"というアイディアをゲームデザイナーと教員の双方を軽視する不合理なものであると考えるかについては、既にこのブログで説明したね(※和訳はここ)。
歴史の本を読めば非常に効果的に歴史を学ぶことができる。もし、誰かの策略によって特定の文脈が奪われてしまわないように気をつけていれば、小説を読んだり、映画を観たり、ビデオゲームやロールプレイングゲームをプレイしたりすれば、少しは歴史を学ぶことができる。ボードゲームといえば、恐ろしくルール中心であって、同じような心理的な深みや語りの巧妙さ(dialectical subtlety)を持ち得ないし、それに同程度の情報量ですら伝えることすらできない。これと同じ理由から、ボードゲームは、政治的なメッセージを伝達するのにあまり適しておらず、それを行おうとする人たちは大抵短絡的なものに終わってしまう。
私は生徒たちによく考えてほしい内容を全て伝えるのに既に四苦八苦していて、ゲームのルールと同じくらいの柔軟性に欠けるメディアを通してこれを行わなければならないとする状況を想像することなんてできない。私にはルールに割く時間なんてとうになく、私には自由形式の柔軟性が必要だ。それは、口頭の比較的自由な形式の講義にしか存在しないもので、反応し、議論し、即興で行うことができるものだ。私がプレイしたことあるゲームの中で、よく考え抜かれており、文章化された歴史ゲームの最高の例であり、プレイして最高に楽しかった「パックス・パミール:第2版」ですら、20ページの記事を読んだり、30分のポッドキャストを聞いたりすることで学べる内容を伝えるのに二、三時間かかってしまう。ゲームとしてプレイするならば最高だ。とりわけ、このテーマに関して既に知識を有しているならばね。だが、教育ツールとしては非効率だ。
十数年前、私は、ボードゲームにおける植民地主義的なお約束ごとに関する長いブログの投稿、あるいは短いエッセイを書き上げた。その中では、本当の問題は歴史的/異国情緒的な決まり文句(clichés)を用いることではなく、こういった用法に対してあまりにも無自覚であることが多く、想定されていたり皮肉的であったりすることが滅多にないという事実であることの理由を説明した。その後、ボードゲームシーンの一部がどのようになったかを鑑みると、最後の点をより一層強調すべきであったと思う。とにかく、「チケット・トゥ・ライド・レガシー:西部開拓記」においては、その決まり文句は意識的に使用されていて、想定されたものである。誤っていたりバイアスがかかった歴史をもたらすものではない。歴史を乗り越えて問題にしていない(it gets rid of history and throws it out of the window)わけだ(この賢明なレビューを参照)。大半のゲームデザイナーが行なっていることだし、これを誠実かつ明確に行っている人をとがめることができるとは思わない。
非常に真剣なゲームである「パックス・パミール:第2版 」とより皮肉が込められている「ルート ~はるけき森のどうぶつ戦記~」のデザイナーであるCole Wehrleは、Twitter(現:X)やBlueskyで同時に行われた3つのディスカッションの1つにおいて、このことを非常にうまくまとめていて、それがこのブログ記事を書くきっかけとなった。彼が言うには、"実際には、ゲームが特定の要素を取り上げていないことについてちゃんとした(good)理由がある場合に、みんなが(※歴史からの)抹消(erasure)であると大声で叫ぶには早すぎることが多いように思う。もちろん、それでもなお、ゲーム(や本)を注意深く精査したり、そういったものの枠組みがもたらす帰結を考慮したりするのは重要だ"。
以上
※本記事に関連する記事としては、以下のものがある。