中心者 - ナニモノ -

石を投げたら中心者になりたい人に当たる。そのあなたはいったいナニモノですか?中心者になりたいと思わず、中心者になるための努力もしなかったけれど気がつけばいつも皆の中心にいたハイジですね。彼女はラッキーだったのか?否いな!只ただ道理のままに皆の中心にいるハイジだったと私には思えます。ハイジを伴って山を下りてきたお祖父さんは皆の輪の中にいた。お祖父さんもラッキーなんかでない筈だ。道理のままに中心にいるお祖父さんなんだ。ペーターのお祖母さんは小屋の中で幸せイッパイになった。これはお祖母さんに齎(もたら)されたラッキーだろうか?否いな、私にはそう思えない。ペーターを真っ直ぐに育てた御褒美にハイジという親友をペーターは得て、それはお祖母さんの幸せだったと私には思えます。

このように見てきて思うのは、ラッキーで人は幸せになれるだろうか?道理に則らないで幸せが得られるなら、そんな理不尽がとおる世界で、全うな生き方に何の意味があるだろう?真っ当な言動・心へ齎(もたら)される幸せは道理に則った結果なのですね。結局、真っ当に生きる人は全うな結果を期待できる。私はそう思うけど、違うかな?いかが?もっと言えば、仏教説話の長者窮子の喩(たと)えは道理に則って無上宝聚 不求自得の境涯へ至り、新約放蕩息子の喩えはラッキー(棚ボタの幸せ)を得るが、この2つの違いをあなたはどう理解なさいますか?あなたは「棚ボタの幸せと真っ当な努力の末の幸せ」のどちらがの幸せだと思いますか?選ぶのはご自身の好みに委ねられるのですから、他者(の私)があなたを指導できる筈もありません。

放蕩息子は真っ当に働かずに中心に祭り上げられて、長者窮子は真っ当に働いて気がついた時には中心にいた。ハイジはどちらの思想の中心者なの?お祖父さんはどちらの思想の中心者なの?お祖母さんはどちらの中心者なの?それで牧師はどちらの中心者なの?私は色いろな中心者の誰をモデルにすべきなのか?お祖父さんの行きかたは私には魅力的。私はハイジになれない。牧師にもなれないし、牧師になりたいとは金輪際思わない。私は私の道を進んできて、それで私として生まれ、その延長をに歩いている。棚ボタに(うつつ)を抜かして大事な大事な私のを無駄にしてなるものか‥これは私の想いであれば、あなたがナニモノか知らない私にあなたの想いが分る筈もありません。あなたはどんな中心者を目指すか、日々をどう過ごすのか‥

気がついてみれば不求自得で中心者の境涯になっているあなたでしょうか。いやいや、私は自分自身のことでもう精一杯なんです。(*'ω'*)

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