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2016年5月の記事一覧
道具に値している役割関数
道具は、役割を持っているから道具だ。そりゃそうだ。それより役割がまったくない道具は、道具ではない。役割を与えたから道具になるわけであるだろ。
ぶっ飛ばしてはなすと、
脳は、部屋の中で、とりわけ、道具しか見ていない。
あとは一切見ていない、見ていないし、なんか、道具の配置しか木にしていない。
その道具の配置パターンによって、なんか、変わってくる。
例えば、MacBookとケータイの配置だ。
携帯電話=意識の延長
射精に関するドーパミンなどの脳内物資を調べていると勃起はセロトニンで、射精はアドレナリンなのだ。そしてその後ノルアドレナリンが鎮静作用だすのか。
ムーラダーラチャクラと呼ばれ第一チャクラは、男女共にあるので、これを刺激するのが瞑想法のひとつである。
ムーラダーラチャクラを開くには、ドーパミンがやはり必要なのだろうか。
そして気持ちいいとはなんだろうか。βエンドルフィンがでただけなのか。それは
統合失調症の幻聴に関する考察19
これまで相対性理論的時間の解釈をもって精神の統合の際におけるコペルニクス的展開を披露してきた。
どうやら、観測者は、昨日の観測者と今日の観測者を統合する際に、理性的な判断が必要なようだ。(ここで観測者はだれ?という問いはしない。もし誰かがわかったところで、気休めにもならないし、確率は99.99999999%無い)
そう考えると、感性のひとつの統覚である、聞くというモーダルチャンネルは、しょーじ
時間の総合的な判断の結果の統覚
時間は不変ではない、時間こそが可変であるとアインシュタインは言った。コペルニクス的展開である。
カント的に時間は感性のものでアプリオリであり、時間と空間というものは物事を考える上で(つまり我思う時)絶対に必要な超越論的な感性であると、そして、時間に対する言及は、そこまでだ。つまり、幾何学的に、点が空間を移動することで線になる経緯を観察することで、時間の経過を経験できる。
そこで、時間の感覚であ
デカルトのコギト・・・・だれ?
ある程度、カントの純粋理性批判ではデカルトについて言及があります。それも結構いたるところに。ある面ではデカルトのコギトが分析する内容が経験であり、分析的なものであると言及しますが、したがって、その「わたし」とは一体何なのかについては、一回読んだ限りでは、正直謎のままでした。
カントに関してはまだほかに批判書が2冊あります。これ以上カントを読むのは、正直ごめんです。まじで勘弁してくれ。
で、まあ
牛丼を食べる人工知能
これまでフレーム理論、スクリプト理論を用いても人工知能がレストランを発見できない理由を著書「苫米地英人:認知科学への招待」を読んでくれ。そしてだな。なぜ人工知能がレストランを認識できないかと言えば、今現在の人工知能が食っている情報は、人間が認識したレストラン情報などをツイッターなりに上げているからであって、もし、NEWレストラン、ポストレストラン、つまりウィキペディアに載っていないような情報は、人
もっとみる純粋知性概念の統合の際における思索
昨日のわたしと、今のわたしが、もし違ってたらどうする?これはもはや、5感を統覚する理性からすると、完全性のない、すべてが未規定の条件になってしまう。昨日のわたしと、今のわたしは、厳密にいうと違う。だけど、条件づけることで総合的に判断し、同じだと同一性を認識して統覚できる。
ここに時間がある
← 時間
の方向へ時間が流れていくが人々はお互いに観測してる場合
統合失調症の幻聴に関する考察16
まず精神の統合(統覚)を失調すると何が、前回の体制で作られた連合国にとってイケないものであるか考えてみよう。統覚の失調は、前回の大戦よりももっと前のウィーン体制くらいからイケないことになっていると思われる。
精神分析学者のユングは、統覚を失調することで地平の向こう、つまり観測者が言語で認識できるあらゆる宇宙の中に、乱数を見つけ出し、それがギリシャ神話と同じような普遍文法Univarsal Gra