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「理詰めのアート」について思うこと

前になんとな〜く、お正月の “芸能人格付かくづけチェック” を見ていたんですが、

ダンスとかビッグバンドとかを見て「どちらがプロのプレイヤーか?」を当てる、というものがありました。


…これはあくまでも主観だし、おおむねではあるんですが、
僕は「素人しろうと目線でダラけている感じがするほうがプロ」という仮説を持っています。

まだまだ駆け出しのプレイヤーは、とりあえずのオーソドックスな規範をまず通るので、「正しく」「間違えないように」「他人から評価されるように」実演することで頭がいっぱいになります。

ところが、人間は習熟しゅうじゅくしていくと、1つひとつのタスクが無意識化していき、顕在けんざい領域である左脳のメモリに空きが出ます。その状態でやっと「表現することを楽しむ余裕」が出てくるのだと思います。


これは、空海くうかい真言密教しんごんみっきょうの話と似ている気がします。
ひたすら経典きょうてん顕教けんぎょう)を読んで読んで読みまくる最澄さいちょうに向かって、それを超える非言語的かつ身体的な宗教観が存在するとさとす空海。

もしかしたら、理詰めになっている人は、
表現において最澄のように「ひたすら勉強する」段階までしか知らず、それを超える右脳の潜在意識せんざいいしき寄りかつ抽象的な直感領域が存在することに気づいていないだけかもしれません。


ちなみに、音楽の世界では、
コンペティションに入賞する(=大多数的な評価基準を満たす)ことに全振りして、正統ではあるんだけど、自分だけの解釈を全く盛り込まない、あるいは主体的に考える力を失った演奏家に対する「コンクール・チルドレン」という蔑称べっしょうをたまに聞きます。

もともとの「間違ってはいけない」という日本人っぽい気質と、「経歴至上主義」という西洋の社会観がマッチしており、
総じて、アーティストの表現力にブレーキをかけているのは「コンテストの副作用」と考えることもできるのです。 (完)

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