2023年に『乳と卵』を読む①
体調を崩し、急遽仕事を何日か休ませてもらっている。胃腸が荒れていて、あまり物が食べられない。お粥なんかを食べているけど、どうしても空腹感はある。
空腹感はあるのに、食欲が湧かないもどかしさを忘れるために、「そういえば読んでなかった。」と大学生の頃に古本屋で買った『乳と卵』(川上未映子 著)を手に取ってみた。
今回は、2000年代に発表された本作を、あえて2023年に読んでみたことで、感じてことをまとめようと思う。
0.はじめに
作品の紹介
本作は、第138回芥川龍之介賞受賞作品である。
著書の川上未映子氏は、ホステスをしていた過去や、歌手として活動していた時期などがある珍しい経歴を持った小説家だ。そんな彼女の、色恋や女性性といった世界観で展開していく作品、『乳と卵』のあらすじはこちら。
読者は、女性であれば、きっとこの作品に出てくる様々な女性らの会話に聞き覚えがあるに違いない。そんなリアルで距離感の近い感覚がある本作だが、現在23歳の私が感じた、この20年弱で変わりゆくもの、変わらないものを3回に渡って書いてみたいと思う。
本記事はその第一弾。テーマは『美』。
SNSが浸透し、誰もが「人に見られる立場」になろうと思えばなれる時代。そんな今を生きる女性の美の価値観を軸に、作品内の巻子・緑子・「私」を通して描かれる女性とその容姿にまつわる部分に着目した感想文になっている。
1.美容整形
美容整形のあの頃と、いま
作品が発表された当時は美容整形というのはまだまだ下火だった。バラエティ特番で、わざわざ美容整形を受けたい女性を募って、そのBefore/Afterを取り上げていたような時代だった。アジアで言うと、タイや韓国はかねてから美容整形大国というような印象だったが、その頃の日本人にとっては「美容整形」というのは珍しいものとして扱われていたし、そこまであけっぴろげに広告が打たれることも少なかった。芸能人や水商売に関わる人の印象が強かったのではないだろうか。
一方で、昨今の日本ではどうだ。電車に二重手術の広告がデカデカと掲載され、当たり前のように美容整形を公表するタレントやインスタグラマーまでいるのが実情だ。なんなら、美容系YouTuberなんて枠組みもあるし、美容クリニックと手を組んだ"案件動画"なんてのも珍しくない。そんな風に簡単に情報にアクセスできるもんだから、どんどんと美容整形を受ける女性の年齢は若年化しているし、美容クリニックの数も爆発的に増えている。
以前は、シミ取りや、たるみ取り程度が「プチ整形」と言われていたのに、現代の若い女性らにとっての「プチ整形」はどんどん広範囲のものを含むようになっている。
『乳と卵』における美容整形
この小説の中では、アラフォー世代の巻子が豊胸手術を受けようとしたことがきっかけで物語が始まる。巻子の姉である独身の「私」はそれを聞き、「なぜ今のこの年齢のタイミングなのか?」「目の二重整形や鼻など分かりやすい整形ではなく?」などと、巻子の豊胸手術の動機がわからずにもやもやとしている。その一方、巻子の娘の緑子は、豊胸手術の是非以前の、小学生の自分にはわからない「美しさ」「女らしさ」「母親らしさ」に頭を悩ませ、どう母親と言葉を交わせばよいのか分からずにいる。
このような設定の本作から、23歳の私が読んで思ったことは「今なら、小学生の娘がまぶたの整形したいと言い出して、母親が驚くところから始まるストーリ―の方がウケそうだし、共感を呼びそうだな~。」ということ。現代の全てがビジュアライズされ、陳列されている商品化のように個性が比較されてしまうSNSの闇をテーマにそのような小説が書けてしまいそうだ。
だが、『乳と卵』は違う。変化が分かりやすい顔の整形ではなく、胸の整形について取り扱われる。常に比較されて劣等感を抱きやすいような若者ではなく、仕事と育児に忙しい母親の整形願望を描く。今を生きる私たちからすると一見、あべこべに見えるようなこの物語から、美に関する価値観や自己肯定について考えていきたい。
2.理想の自分と自己肯定
今の自分と理想の自分
初めに断っておくと、私は美容整形を悪だと批判したいわけでもなく、反対に他人の容姿や整形に口を出しがちな風潮をディスりたいわけでもない。だが、「女が美容整形をするのは、男にモテたいからじゃない!なりたい自分になるためだ!」というような主張が出るたびに、やや疑問に思うことがある。そのなりたい自分って結局どこから湧き出たものなの?それに、理想の自分にならないといけないって誰が決めたの?といった具合に。
それに対して、この物語の中でまだ幼い緑子が持つ「美しさってなんなんだ?美しく生きることってそもそも意味があるの?」というような純な疑問は私にとって印象的だった。まだ学校生活の範囲でしか社会生活をしていない緑子にとっては、「自分」というのはnow,here的な存在で、今ここにいる自分以外の自分に憧れ、自分の今の形を変えるというのはかなり異常なことに思えたのだろう。
一方、緑子の母親である巻子は、明確な理由はあるのか曖昧なままに、豊胸手術をしようかしまいかと考えている。目や鼻ならまだしも、それも胸?と語り手の「私」に突っ込まれても、何か具体的な理由を話すわけでもない。そんな巻子はなぜ、豊胸手術のために美容クリニックのパンフレットを集めたり、わざわざ東京に足を運んだりしたのだろう?
自分で自分を励ますために
私はその動機として、巻子は巻子なりに、「胸が大きくなったら、女手一つで娘を育てること、生活のためのスナックの仕事、かつての夫との思い出を断ち切ること、などなど、全部ひっくるめてなんとなく頑張っていけるかもしれない。」と感じたのではないだろうかと思う。それはあくまで女性としての魅力を磨いて、周りの人からも言い寄られて…なんてそんな単純なものではないだろう。今の自分から何か一部でも変わったら、それが励みになるかもしれないというような言い表せられない希望や願いのようなものだと思う。
If…と、違った選択をした未来や、自分の一部が違った場合を夢想すること。その想像した架空の自分が、今の自分よりも素敵に思えた時、それが理想の自分になるのかもしれない。巻子の場合は、日々の生活で疲弊し、その中でもしかしたら母親としての自分の自信を失ったのかもしれない。緑子は、今の母親から何か変わって欲しいわけではなくて、ただもっと側にいてほしかっただけなのかもしれない。そんなすれ違いに気づかず、巻子は娘を産み、育てた象徴であったのに、痩せ細ってしぼんでしまった胸を豊胸するとで、うまく母親としてやりきれていない自分の自信を取り戻そうとした。緑子は何か変わってほしいわけでもなく、寄り添ってほしいだけだと上手く伝えられないから言葉を発するのをやめた。
変わらなくてもよいこともある
ある意味、当初の巻子の発想のように美容整形や、何か自分の一部を変えることで心機一転、新たな自分として自信を持っていきていけるのなら、幸せなのではないかと思う。だけど、自分を愛すことはそんな単純で簡単なことではない。だからこそ、緑子の「そんな風に変わったところで、何かいいことがあるの?」という素朴な思いは自己実現の難しさを残酷にも指摘しているように思える。
この作品の中では、叔母と母の帰りを待ち、寂しく不安な思いをした緑子が、やっと母の巻子が帰ってきたタイミングで緊張が解かれ、そこで感情を爆発させた。そこで親子の寄り添おうとする努力がすれ違っていたことに言葉を交わさずとも気づくことができ、結局巻子らは大阪へと帰っていったのだった。
このストーリーから私が感じたのは、抱えている問題を解決するのには、自分自身が何か変わろうと努力する以前に、当事者同志のぶつかり合いは避けられないということだった。手っ取り早く、時にはお金で自分を変えて解決することだって可能かもしれないけど、メスで自分で傷つけるよりも、本音で話して少しの傷ができるくらいの方が、かさぶたが剥がれるのは早いのだ。
3.現代の“自己実現”の危うさ
簡単さは後戻りできない
今までの内容を踏まえて現代の美容整形事情を考えてみる。その時、やはり一番に懸念したのは色々な面で手軽になってしまっていることだ。情報にアクセスすること。その値段。普及したからこその気まずくなさ。
物語の中では、巻子がわざわざクリニックに電話をしたり、資料を取り寄せたりしていたわけだが、今やSNSで「豊胸 クチコミ」なんて言葉をぱぱっと入れるだけで、ある程度の情報(信憑性はさておき)は得られてしまう。
世の中がどんどん便利になって、今まで情報にアクセスできなかった人も様々なことを知れること自体はいいことだと思う。だが、緑子が不思議がっていたように「なんで二重になったら自分のことを好きになれると思ったの?」「年齢とともにたるんできたフェイスラインを引っ張り上げることでどんないいことがあるの?」という動機の部分を見つめ直すことなく、施術まで進んでしまわないだろうか、と私は不安を覚える。
それに、その動機の部分を深掘っていけば、マスメディアでの過剰な煽り、SNSでの画像加工への慣れからくる美意識や価値観が潜在意識に根付いたものだったりしないだろうか。あまりにも手頃・手軽になることで、自分の理想は本当に自分が描いたものなのかと吟味する余地すらすっ飛ばしてしまうことで、結局は自己実現ではなく、大衆の見えない集合的無意識的な理想を実現するだけになってしまっていないか。
あなたが定まる前に
本来であれば緑子のように、幼い子供は、自分の中のアイデンティティや自我が確立するまでどんな自分になりたいかや、何が世間的には良いとされるのかというのは鈍感であるのが正常だと私は思う。そのはずなのに、今の小学生の女の子が「脱毛をしたい」と言い出すのは珍しいことではないらしい。過剰なプロモーションがテレビ、電車、動画サイト、SNSに蔓延るせいで、これが当たり前なんだと思わせてしまうのだろう。
そういう意味では巻子の、胸を大きくしてみたいという願望も根幹は何なのか曖昧なままではあるが、様々な資料を見比べたり、実際にカウンセリングを受けに行ったり、彼女の「本当の自分は豊胸したいのか?」と自身を試すような行動は、美容整形がファストフード感覚の現代には必要なもののように思える。
4.おわりに
どんな理由で、何かを求めたっていいし、どんな理由で、何かを辞めたっていい。
そんな風に、あなたがあなたの形を自分で定めていいのだと思わせてくれる作品だった。
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今回は作品の中の『美』の部分にフィーチャーした私の感想を書いてみました。
次回は、『出産』をテーマに書こうと下書き中で、この記事をいいなと思ってくださった方は、フォローして次回の更新をお待ちいただけると幸いです。