本だより(3)「秋葉原事件 加藤智大の軌跡」中島岳志
今回取り上げるのは、2008年6月に起きた秋葉原無差別殺傷事件の加害者を題材にした「秋葉原事件」です。著者は政治・歴史学者の中島岳志氏。加害者である加藤がなぜあのような犯行に至ったのか、単純化できないプロセスを、彼の生い立ちを追いながら探ったルポとなっています。
感情を整理すること
まず本書では、加藤という人物の思考のプロセス、行動の基準を表現する際の前提として、加藤家の教育方針がたびたび触れられている。
加藤は怒られる理由を母から説明されたことがなかったという。理由を聞いたり、抵抗したりするとさらに叱責が続くため、彼は叱られることにただ耐えるようになっていった。ーp.26
このような家族の背景から、加藤自身もフラストレーションを抱えた際に、相手に言葉で伝えるのではなく、行動を示して理解してもらおうとするパターンが身についたという。
このような行動パターンが、ネット上の「なりすまし」に対するアピール行動として現れたのが本事件であるとする、加藤と弁護士が語った生育歴のストーリーについて、著者は疑問を呈している。
とはいえ加藤がことばを介して人と交流する力が乏しかったこと、自己表現が難しくキレやすかったことは、事件が生じた要因の一つとはなっているだろう。ではなぜ幼少期の経験によって、「感情の整理」が難しくなり、言葉で表現できずにキレやすくなるのかを、もう少し丁寧に追ってみる。
本書にも「人は言葉の動物だ」とあるように、人間は言葉を介して物事を知り、考え、情緒を深めていく。
例えば言葉を用いない赤ちゃんは、「快」「不快」の感情しか持たないが、だんだんと喜怒哀楽やもっと複雑な形で感情は分化していく。
カウンセリング等において、感情を整理する技法として、「感情のラベリング」がある。それは患者が持っているモヤモヤした得体の知れない感情について「それは寂しいってこと?」「嬉しかったね〜」などと名前をつけることである。
もちろんラベルを押しつけるわけではないが、カウンセラーの言葉をきっかけに自分の感情について気づき、振り返る力を高めていくことができる。
身体の病気でも、病名がつくと安心することがあるだろう。恐怖、怒りといった負の感情も、名前をつけて受け入れ、心の引き出しに安全な形で収納する練習をしていくことが大切である。
では幼い頃に周囲から共感され、気持ちを一緒にラベリングして整理してもらった経験がないとどうなるのか。感情は得体の知れない怖いもののまま、中身も見ないでただ布を被せてしまわれることとなる。それでも布を被せられればまだいいが、扱いきれずに溢れ出したり、少し風が吹いただけで布が吹き飛んでしまうこともある。
感情が未整理である、言葉で表せないことは、とても危うい状態を常に抱えているということのなのである。
加害者は"孤独"だった?
本書を読んで意外に感じたのひとつは加藤について語る登場人物が思いの外多く存在することだ。青森の地元の友人をはじめ、職場でも目をかけてくれる人が複数人おり、ネットでもリアルな友人に発展している様子が描かれている。
また、仕事に関しても、一定の評価を得ており、本来的な能力の高さがうかがえる。
彼の仕事ぶりはまじめで、作業は丁寧だった。
加藤は、間もなく正社員に昇格した。彼の能力が認められての採用だった。ーp.89
どの職場でも仕事ぶりはそれなりに評価されるものの、自らリセットしてしまう。
満たされない加藤の背景には、「自己愛」の問題があるように思う。自己愛とは、周囲からの承認の経験や理想とする対象を通して育まれる、野心や向上心、価値規範、理想などを指す。健康な自己愛を有していれば、程よい自尊心を保ちながら客観的に実現可能な理想を目指し、行動していくことができる。
しかし加藤の場合は、職場やリアルの対人関係の中で、自身の役割を全うし、生きていくだけでは承認欲求が満たされないと感じていたようだ。どこかに「自分はここにいるような人間ではない」「上から指示されて、代わりの効くような仕事をするだけでは納得できない」という思いがあったのではないか。
対人関係においても、誰かの特別な存在になりたい、という思いが強いことがうかがえる。また、友人との間でもどこかマイペースに、表面的に接することが多かったせいか、本音で向き合ってくれた相手への距離感や感情の出方が極端である。恐らく子ども時代の友人関係の中で経験するような、些細な喧嘩をして仲直りするだとか、少し意地悪な言い方をして友達とトラブルになり、言葉遣いを調整するといった経験が極端に少なかったのではないだろうか。
相手の様子を見ずに突然行動する、感情を出す、という行動に出た場合、人生経験が豊富で受け止められる人(本書で言えば同僚の藤川、駐車場の管理人など)であれば良いが、同世代の女性が加藤の気持ちを受け止めることは、困難と言えるだろう。また、大人になって拒絶される経験をするということは、心理的ダメージも大きい。
インターネット空間での対人関係
現実世界での居場所がどんどん狭まっていった加藤は、インターネットに居場所を求めるようになる。しかし加藤の承認欲求が満たされるためには、個人は特定されないものの、掲示板の住人には特定の人物と「分かる人には分かる」となる必要があった。
現実の世界では職場放棄をして別の場所で関係を作り直せばいいが、携帯サイトの掲示板で彼のキャラを容認してくれるところは、他に思い当たらなかった。彼にとって「キュウカイ」というウェブ空間は、自己承認欲求を満たす代替不可能な居場所だった。ーp.147-148
最終的には、掲示板でも孤独となった加藤は犯行に及ぶことになるのだが、そもそもどのような人がインターネットにのめりこむのだろうか。またこの事件を振り返り、2021年を生きる私たちはどのようにインターネットと共生していけばよいのだろうか。
秋葉原事件から13年たった現在、インターネットはさらに普及し小学生がスマートフォンを持ったり、TikTokやLINE等のSNSを利用することも珍しくなくなった。
以前であれば現実世界の友人をリア友と呼び、インターネットを通じた対人関係は現実とは切り離されたものと捉えられていた。しかしインターネットでの出会いがリアルな関係に発展したり、インターネット内で多くの承認を得ることが、そのまま現実世界での価値につながる時代になっている。また、顔出しをしてインターネット投稿をすることを厭わず、むしろインターネットをきっかけに有名になろうとチャンスをうかがっている人も多いだろう。
インターネットを遮断して、全くのアナログの世界で生きることは通常困難である。つまり、インターネットはあくまで仮想という前提を捨て、学校や会社等での対面でのコミュニケーション方法と、インターネット上でのコミュニケーション方法とをどちらも身につけねばならないのだ。
そのためには子どもの頃からの教育も必要だろうし、うまくいかなかった時の救済も必要である。たかがネットの中のことなんだから寝て忘れなさい、という訳にはいかないだろう。
やはり現実世界で行き詰まったからインターネットに救いを求める、ではなく、目的や状況に応じてインターネットを手段として用いることができることが理想である。現実世界での生き抜き方をサポートできるよう、私自身も目の前の人に向き合っていきたいと思わせられる一冊だった。
【プロフィール】
臨床心理士、公認心理師、ときどきNPO理事。
読んだ本の蓄積とoutputの練習を兼ねてnoteを書いています。
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