文章と自分のリハビリ ⑩(2022年 9月下旬)
只今、こころの充電中につき。
一日一題、お題にそってものを書いて投稿するサイトに出したものより。
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① いくつになっても子どもはかわいい
うの子どもが乳幼児だったころ、私が育児に疲れた様子を見せるたびに、おかーちゃまから、「いまがかわいい盛り」とくりかえされてうるさかったので、そのたびに感じていたプチストレスを解消するために書きました。
「いまが〜」が出てきたらいつも、うっせーな、と思いながら、こころのなかで「絶対、明日も毎日かわいい盛りやもんねー」と、アカンベーしてました。子どもが高校生になっても、やっぱりかわいい盛りは終わらないので、この勝負、私の勝ちだと思ってます。
それにしても、おかーちゃまの「いまが〜」発言のなにがそんなにカンに触っていたか。思い出したのもせっかくの機会なので考えてみました。
① 来年にはかわいさの賞味期限が切れるんか〜いッ!
まずはこれかと。「いまがかわいい盛り」ということは、現時点で最大値をむかえているということであると同時に、
と暗に示唆していることになります。
おそらく私は、言語化されてない方のメッセージをなんとなく感じとって、ちがうわいッ!、と反発していたのだと思われます。
② なんぼかわいくても、やっぱり育児はしんど〜いッ!
もうひとつはこれかと。
「いまが〜」発言は、おそらく「身体がちいさく、言動もたどたどしい、というかわいらしさは、今限定のもの。楽しまないともったいない」ということに目を向けさせたい、という親心から発せられていたのだと思います。だけど、そのかわいらしさがいくら今限定のものだったとしても、しんどさが消滅するわけではありません。だって、「しんどい」というのは、発生するしんどさの量に対して、しんどさからの回復の速度が追いついてない、という問題です。発生量を減らすか、回復に費やす時間を増やすか、それともおもいきって発生源から完全離脱するか、現実的な手段をとる必要がある問題です。
「育児がしんどい」と訴えたい気持ちに対して、現状確認や現実的な手立ての提起をすることなく「いまがかわいい盛り」と返すのは、的外れだし、しんどさへの共感を欠いています。共感を欠いた返答に、いわれた方はどういうメッセージを受け取るかというと、
になるかと思われます。
なるほど、いちばんしんどいときに、いちばん頼りにしていた母親から、「そのしんどさは存在してないから、ひとりで頑張れ」と受け止めるしかない影のメッセージを送られてたわけですから、10年以上たったいまでも、なーんかモヤモヤがのこってるはずですよね。
だけどこれは逆にいうと、共感を示す、という行為は、
と、そのひと固有の「しんどさ」を、そのひとの気のせいではなく、公に存在するものとして認定する行為だ、と考えられそうです。そして、「しんどさ」の存在が認定されてはじめて、解消に向けての他者の介入が開始されるわけです。なるほど、だから、共感してもらえるか否かは、人間にとって死活問題であるわけなんですね(いうまでもないことですが、「 」の中身は、悲しみや喜び、その他に取り替え可能です)。
さすがに疲れてきたのではしょりますが、共感にあふれる社会の方が生きやすく、共感の薄い社会は生きづらい、ということも、「共感」という行為の発する裏メッセージで、うまく説明できそうですし、「共感」という行為の持つ社会的な価値は、もっと尊重されていいのでは、と思いました。
ところで。思考がつながったのでついでにつけくわえてしまいますが、ひろゆきこと西村博之さんが火をつけた「ウクライナへの千羽鶴」の件や、ごく最近の、「辺野古の座り込み」の件とかですが。
こーゆーときのひろゆきさんって、一見、一理あることを言ってるようなんだけど、なんとなくイヤな感じがするから賛成したくないな、って感じるのは私だけでしょうか。
結局これも、
と無意識裏に感じてしまうからなのでは、と思いました。
非常に残念なのは、ひろゆきさんの態度は、基本的に相手側を揶揄し罵倒することを目的としているようにしか見えず、そのために、ひろゆき擁護派とひろゆき否定派が建設的な話し合いをすることが、最初からできない雰囲気になってしまうことです。いまさらですが、千羽鶴については、バカバカしい千羽鶴たたきなどせず、お互いの主張に共感しあいながら、「千羽鶴という伝統的で美しい形を生かしつつ、より実効力のある支援方法に昇華できないか探る」という方向にむかっていくチャンスがあったのではないか、と思うことがあります。
もう、さらについでだから書いちゃいますけど、これらの件についての最近の私の見解は、「良し悪しや当否をジャッジする権利は、アンタにはないし、誰にもない」です。ひろゆきさんのやったことは、
という構図と全く同じものだと考えています。
みなさん、もういいかげん、共感という橋をかけながら問題を解決していく気が毛頭からないようなひとの気まぐれな言説に振り回されて、建設的にあたらしいなにかを生み出せたかもしれない機会を棒に振るようなことは、もう辞めにしませんか?
今回の辺野古件で、つくづく思いました。
さて、最後に。そろそろ本題にもどさねば。
子どもがおばさんになっても、「かわいい」と感じるかどうかについては、さすがの私も疑問符をつけています。ですが、うちの親の私に対する態度をみていたら、「かわいく見える」時期が過ぎてもなお、子どもに対して「かわいいと感じる」気持ちは減衰しないんだろうな、と予想しています。
うーん……このままだと、子どもがおばさんになっても、あいかわらずかわいい盛りを爆走してそうですね。魔法陣の最終的な使途については、そんな気持ちも反映しています。
② 素直じゃないので、わざとながながと書いてみた
夫♥、という気持ちを素直に表現するのが苦手なので、反動形成ということばどおりに素直じゃない文章を作成してみました。「。」は最後にひとつだけ、という着地点だけは設定して、昔の学者か文豪かがなんかしらんけど理屈をこねくり回してる風、にしあげてみました。
こういうほっこりするネタはみなさん好きなようで、この文章、なかなかウケてました。
一般的には「男性のもの」と識別されうる文体で書いてますが、話し手は私自身なので女性です。そのへんのくいちがいに違和感を感じるひともすくなくないのではないか、とは思います。が、実際にこの文体で書いてみながら、素の自分にかなり近い、と感じていました。また、使うのが好きな文体でもあります。
このような文体が「男性のもの」と思われがちなのはなぜか。あらためて考えてみると、それは単に、かつて、学者や文豪というもののほとんどが男性によって独占されていたから、にすぎないのではないでしょうか。だから、「この文体は男性のものだけど、あの文体は女性のもの」というような感覚は、女性の社会進出にともない、いずれは無くなるのではないかな、というようなことも作文しながら考えていました。
③ ストレートに「別れたろかッ!」と書かずに、昇華させてみた
お題は《秋恋》という謎のことば。最近の恋愛事情では、こんなことばがつかわれてるのかな……と思いましたが、使用例があったとしても、自分は使ったことないし、まったく実感がともなわないので、このままの形では使うことはできないと判断。「秋の恋」ということにして、百人一首でもお約束の「秋 = 飽き」というかけことばとして使用することにしました。
ちなみに《秋恋》ということばについて、違和感を表明する参加者は、若干ですがいました。
② の文章では、夫♥の気持ちを表明しましたが、こちらでは「クッソー……あいつむかつくッ!(ノ`Д´)ノ彡┻━┻」って気持ちをフルで投入しました。
うん。今年にはいってから、生理の周期が、2週間に1回に短縮、で確定したので、まちがいなく更年期はいってます。ホルモンバランス関係のもやもやもたぶんあるし、夫の定年退職も視野にはいってきて、「お片付けやらなすぎる現状のコイツと、24時間一緒はマジで勘弁」っていうのもある。夫の部屋のゴミ屋敷具合、大目に見てあげるにはすでに限界突破レベルなのです。
また、うつがいい方にむかってきてるんだけど、その代わりに、「あれ? なんで私、いままでこんなにいろいろガマンしてきたんだろ?」っていうのにふいに気がついてしまって、「これ以上ガマンさせんな〜!(ノ`Д´)ノ彡┻━┻」っていう怒りが爆発しまくってる、っていうのの影響は大きい。
……というようなストレスからくる、「この夫、いますぐにでも別れたろかッ!」っていう気持ちの荒ぶりを、この文章に、全部ぶち込みました。
適応規制に、社会的に認められないような願望を、全く別な、キラキラした形(スポーツやら芸術やら)にして放出する「昇華」というのがあります。私はずっと、それってホントかよー……と実在を疑ってたんですけど。
今回この文章を書きながら、夫へのイライラをキラキラ化してみてわかりました。「昇華」はたしかに実在するし、しかも、かなりストレス解消になります。過激ないいかたになりますが、リアルに夫婦喧嘩してことばの棍棒で相手をぶったたくのとおなじぐらい、スッキリします。むしろ、昇華は、相手にはバレない所でバレない形でストレス解消の棍棒をふるっているので、後でモメることがない、というのはメリットありかも、と思いました。
ていうか。「怒り」は「怒り」として、等身大のまま、いちどちゃんと放出したほうがいいです。そうすることで「自分は怒っていたんだ」ということをちゃんと認識できます。認識することによってはじめて、怒りの対象に正攻法で立ち向かう覚悟ができます。どう攻略すればいいか、おちついて知恵を働かせることができるようになります。
今年にはいってから、夫にはずいぶん夫婦喧嘩の洗礼を浴びせてしまいましたが、それ自体が、「私がなににどれだけ怒りをためていたか」を発見する過程でもありました。「怒り」「喧嘩」ときくと、顔をしかめるひとが多いと思いますが、私にとったら思春期の子どもが反抗することで親に立ち向かい、力関係を変容させていくのと同じプロセスだったな、といま振り返ってみて思います。
つまり、私たち夫婦は、平等な関係を取り結べている、と思い込んでいたけど、実際は、夫が我を通し(つまり、散らかしを放置したあげくに謎の合理化をして開き直る)、それに私が押し切られて我慢する、という不均衡な関係性だった、だけど、そんな関係性でも甘受して夫婦関係を維持する気持ちがもはや絶えた、絶えた以上は別れるか、関係性を構築し直すしかない……たとえ派手に喧嘩をしてでも、ということです。
勘違いしないでほしいのは、いまだから、やっとこんなふうにきちんと説明できるようになった、ということです。プロセスの渦中にあるときは、自分も他人もわけがわからずもがくしかできないものなんです(だからこそ、第三者であり、心理的な作用の専門家であるカウンセラーの介入が必要だったりするんですよね)。ここにさらりとまとめたことはすべて、心理的な発作としか呼びようのない怒りの爆発を繰り返しながら、ひとつひとつ自分の手と頭で明かし、つかみとっていったものなんです。
もちろん、対人関係をこじらせない怒り方を選択できるにこしたことはないんですけどね。うちは、ど派手に切った張ったしたあげく、そろそろ雰囲気を和らげようと私のもらしたどーでもいいひとことに夫が不用意に笑かされて一気に和む、というパターンの繰り返しで、やっと夫の変化を引き出せつつあるところです。
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またもやおおはばに5000文字をオーバー(@_@;)。
今回はここまで。
こんな感じで、われながら気に入った文章と、自己分析的なものを、つれづれに書いています。
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