文章と自分のリハビリ ⑨(2022年 9月中旬の後半)
只今、こころの充電中につき。
一日一題、お題にそってものを書いて投稿するサイトに出したものより。
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① 秋に「花畑」になる花、って?
お題は《花畑》。だけど、秋に花畑になるような花って、そもそもなにがあるんだ?、ってまずおもいました。ススキは花って感じがないし、セイタカアワダチソウも「花畑」っていうのは抵抗がある。だって、あれは、むしろ耕作放棄地にはびこってることのほうが多い。ベタなところで、コスモスの花畑があるけど、このお題が提示されたころは、まだ時期早尚……いちおう、季節が大きくはずれたものはとりあげないのをマイルールにしてます。だから、ヒガンバナもぎりぎりアウト。
と、いうことで、花畑といっていいくらいはびこって、しかもそれなりにきれいなもので、時期的にも矛盾がないもの、といったら、タデしかあたまに出てきませんでした。それと、一昨年と去年の秋は、庭にいい感じにタデがはびこって壮観だったのに、今年は梅雨時の草刈りのタイミングが悪かったのか、ほとんどタデが生えなくって。その残念さもあって、空想のなかで、野原いっぱいのタデを色付かせてみました。
タデの穂のぷちぷちを「あかまんま」とよんで、ままごと遊びにつかってた地域もあるそうですね。タデのぷちぷちはほんとに食べられるらしく、検索したらレシピもでてきました。ですが、「赤飯」ということばとちがって、「あかまんま」は、あどけなさとおどろおどろしさが妙にいりまじってるように感じられ、若干、異界の食事的な雰囲気がただよっています。そのうえに、タデの穂のギョッとするほどの色鮮やかさを重ね合わせて出来た文章です。
ていうか、タデは穂であって、一般的には花とはいわないから、「花畑」っていうのも変なはなしでして。自分がいくぶんかのムリを感じているなら、読者も「???」となるだろうとおもったので、最初から、
と宣言してしまうことにしました。にもかかわらず、ラストでは、
しれっと、「タデの花畑」と書いてしまってたりするですよね。だけど、これはこれでしっくりきてて。「タデの花畑」という表現が一般的にはまずないこと自体が、「花畑」ということばから感じる夢想的な雰囲気とあいまって、鬼の住む異界に迷いこんだ子どもが主人公、という設定にうまいことマッチしたのではないか、とおもっています。
異界つながりでいうと、
という一節が、自分的にはこの文章のなかでいちばんこわいです。ここを読むたび、あっちの世界に、すうっと、ひきこまれそうな感覚がしてぞっとします。
「欠けた」ということばがしめす不完全さ、「どこからともなく」ということの不確かさ、ゆえに、ただでさえ得体がしれないモノであるうえに、誰かが欠いで捨てた、といういわくすら帯びている、かつては生活用具であったモノを、「ひろってくる」ことで身近にひきよせるあやうさ……等々を無意識のうちに読み取ってしまうからなのではないか、と考えています。
とはいえこれも、戦後間もなくの窮乏期に子ども時代をすごした親の世代では、欠けたり、ひびが入ったりした食器を集めてきてままごとに使うのはデフォルトだったのを反映しただけ、だったんですよね。もしかしたら、ですが、「ままごとのおもちゃは買ってくるもの」がデフォルトになった現代のわれわれの眼差しには、かつての暮らし方であること自体が、異界感を増す要因となっているのかもしれません。
今回は瓢箪から駒でこんなふうな深みのある表現をすることができましたが、ことばをイメージの集積体ととらえるとしたら、ことばが背後に帯びる世界を見通したうえで適切に選択し、たくみに組み合わせられるひとを、物書きのプロ、とよぶのかもしれない、などともおもいました。
② 文学的表現の可能性
お題は《夜景》。夜景、といえば市街地の光点の密集と散らばり、について述べるのがデフォルトのころを、逆張りして、過疎地の民家のともしびがまばらな情景を描いてみました。
日本の農山漁村が、いまや音を立てて崩壊していっている、ということについては、折があったら触れねばならぬ、というおもいがあって出てきた文章です。
高度経済成長にともなう社会変動が、つい最近まで江戸時代とほぼ変わらぬような暮らしを継続していた農山漁村をどのように変化させ、崩壊させていったか、そしていまや崩壊どころか消滅しつつあるか、親から聞いたこと、本で読んだこと、新聞やテレビで知ったこと、そして広大な過疎地を抱えた県の県民として肌感覚として感じていること、すべてを思い出しながら、一行一行に刻みつけました。読む人が読めば、ここに書き付けてあることを触媒にして、さまざまな思い出や経験、知識を思い起こしてもらえるのではないか、と思っています。
都会暮らしで田舎を知らないみなさんには、ぜひ、想像してもらいたい。先日地上波で放送されたアニメ映画「竜とそばかすの姫」の主人公のすずは、仁淀川を遡ったところにあるちいさな集落で暮らしていましたよね。この文章で書いた内容は、あの映画で描かれた集落が経てきた歴史であり、まさに今の光景でもあります。さらに想像をひろげると、すずはおそらく、あの集落に暮らす数少ない子どものひとりで、同い年の子どもは集落内にだれもいない可能性が高い、と私は推測しています。作画のモデルになった集落の実際の人口構成まではわかりませんが、彼女の暮らす村は、おそらくは準限界集落、よくても、かろうじて存続集落に踏みとどまっている状態である、と考えておいてまちがいないのではないでしょうか。
この文章に盛り込もうとした内容は、農山漁村における地域社会の変遷や未来に向けての提言をテーマとした論文として、統計資料や先行論文の引用、住民アンケートや聞き取りの書き起こし……等々を盛り込みながら叙述するべきような内容です。原稿用紙になおしたら、それなりの枚数が必要になることはまちがいありません。
だけど、そのくらい膨大な内容が、文学的に書き起こすことで、こんなにもコンパクトにおさめられることに、この文章を書きながらいちばん驚かせられました。ひとつひとつ詳細に論証していかねばならない論文と、ひとつの言葉に深い意味を象徴させながら紡いでいける文学と、そこが大きな違いなのですね。
また、論文は共感や共鳴を呼び起こすのは苦手ですが、文学的表現にはそれができます。
この文章を書きながら、文学的な表現の強みや可能性をひしひしと実感することとなりました。私がついた教授は、「論文は文学的に書け」というようなことをモットーにしていましたが、なるほど、あの先生はそうすることによって、無味無臭になりかねない論文を、悩みをかかえながらも住み慣れた地域を愛し、生きていこうとしている人々の鼓動や体温が伝わるようなものにしようとしていたのかもしれない、といまさらですが納得するものがありました。
今回は、時代の流れに押されるように村外に流出した人物を主人公にしています。これは私の親の投影でもありますが、自分自身がその当事者である、というひともすくなくないと思います。私のように親の代、あるいは、祖父母の代、曾祖父母の代に遡ればルーツは田舎である、というひとも加えるともっともっとおおくのひとが、間接的ではあれ、この文章に書き表された事象の当事者である、といってよいことになろうかと思います。
主人公のかかえる「これでよかったのか?」という悔恨に共鳴してくれるひとがひとりでも多からんことを、祈っています。
③ 日本の伝統美の源は
たまたまですが、① の文章と ② の文章を足して2で割ったようなものができました。これ、9月の末ごろのお題のものなので、noteにもってくる順番はまだ先なのですが、せっかくなので。
これらを三部作とみなして、全部同一の主人公の物語として楽しんでいただくのもアリだなー、と思ってます。
この日はお題が《秋🍁》で、この紅葉マークも使って文章をかくには、「これはインスタ等の写真のタイトル」という設定にするしかない、と考え、このような文章になりました。
写真に《秋🍁》としかついてない → たぶん、送り手は口下手 → 口下手は昭和のお父さんの特徴、という連想です。《秋》だけですまさず、せめて 🍁 をつけたところに、若者文化や新しいものに馴染もうとする、昭和の男の父としてのやさしさを感じてもらえたら、と思います。このへんは、いつも黙っているけど要所要所でちらりと愛情をみせてくれるうちのおとーちゃん、を投影しています。
わざわざ家族のことを思い出したり、ほめたりするのは照れくさくて苦手ですが、こんなふうに、物語のなかに感謝の気持をふとはさみこむことで、照れくささがなくなり、わりと素直に、ていうか、どストレートに「親ってありがたいなぁ……うちの親、さいこー!」なんて思えたりします。物語化って、思ったよりセラピー効果、高いです。
さて。四季の明瞭な日本では、季節ごとに特徴的な色がありますよね。秋の色は暖色、ことに紅葉や黄葉、枯れ葉の色はもちろんですが、それらの色彩を背景にして、さらにくっきりと際立つ赤紫こそが秋ならではの色ではないか、と私は思っています。なのですが、文章で取り上げた赤紫色はあくまでも雑草の色なので、都市部では見つからないし、ましてや、ホームセンター等で園芸用の植物を買ってきて花を植えるのが主流の現代、どこでこれらの天然の赤紫色をみつけたらいいのか。
伝統の美しさを大事にするって、ただたんに着物や和菓子や日本画やらを大事にすればいいわけではないです。それらのインスピレーションの源になった自然、そして、自然と隣り合った田舎の暮らしの文化的な価値を重んじることなしに語るのは、愚かなのでないか、とすら思います。
これは一昨年の note↓。このときから続いてる問題意識が、この回の文章には反映しています。
ところで、今秋は、秋の全国旅行支援キャンペーンを利用して、「竜とそばかすの姫」の聖地巡りをくわだてているひともいるのではないかと思います。その折にはぜひ、主人公のすずが暮らす集落のモデルになった地域の、沈下橋のたもとや集落を縫う生活道のみちばたのなにげない秋草にも目を止めてほしいと思います。すずは、バーチャルの世界で歌姫であると同時に、リアルの世界では、これら自然美と隣り合った暮らしをしているわけです。
ですが、田舎の草木の美しさは、草刈り等の手入れを怠れば、ただの荒蕪ともなるものです。とくになんでもかんでもに被覆してしまうクズは、花の色はきれいですが、荒廃の象徴です。先にも書きましたが、セイタカアワダチソウの群落も、休耕地に手入れが行き届いていないサインです。地域が荒蕪地となり果てた末の草木のありさまは、美しくもなんともなく、無残、としかいいようがありません(廃墟独特の佇まいがあることを否みはしません。ですが、荒れるにいたった背景を理解しようとせずに手放しで愛でるような行為は、私は拒否します)。
高校生であるすずは、すでに集落の草刈りの一員としてあてにされている存在なのではないかと、私は思っています。そして、限界集落になる、ということは、あえて具体的にいうと、草刈りの担い手が不足する、もしくは、いなくなって、人間が暮らしているゾーンが雑草の繁茂力に負け、自然にのっとられていく、ということ、最終的にはすべてがクズに覆い尽くされて、ジ・エンド、ということです。
高校を卒業してからも、すずがこの集落で暮らし続けるかぎり、草木から人間の暮らしを守る主力戦士としての地域住民からの期待が、両肩にのしかかり続けることになります。仁淀川の奥の集落に生まれた子どもであるすずが直面している、映画の設定集にはのってないであろう厳しい現実も、聖地巡りの折に想像していただけたら、と思います。
「竜とそばかすの姫」は、ほぼ写真といってよいくらいリアルな背景画を持つアニメ映画です。だからこそ、モデルとなった地域の抱える絵空事ではない事象まで考察しながら鑑賞する、ということもできるのではないか、というのが私の提案です。
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予定の5000文字から、ほぼ2000文字のオーバーになっちゃったけど(@_@;)
今回はここまで。
こんな感じで、われながら気に入った文章と、自己分析的なものを、つれづれに書いています。
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