ショスタコーヴィチとヴァインベルクが、ニールセンとよく似ていた件① 【C.Nielsen】《私的北欧音楽館》
Eテレ クラシック音楽館 2019年7月14日(日)放送
N響第1911回定期公演 (2019年4月24日、サントリーホール)
指揮 下野竜也
ショスタコーヴィチ バイオリン協奏曲 第1番 イ短調
(バイオリン ワディム・グルズマン)
ヴァインベルク 交響曲 第12番 作品114
「ショスタコーヴィチの思い出に」
ショスタコーヴィチとニールセンの楽曲が似ていることは以前から知っていましたが、今回の放送ではじめて聴いたヴァインベルクもまた、ショスタコーヴィチと違った意味でニールセンに似ていてびっくりしたので、走り書きではありますが、記録として残しておきたいと思います。
記録といっても、書くうちに長くなったので、2回に分けてお届けします。今回は、主にショスタコーヴィチについてになります。
とはいえ、ここはニールセンがメインのアカウントなので、かなりの部分がニールセンの Den danskesang er en ung blond pige と交響曲 第6番「シンフォニア・センプリーチェ」についてになっています。ご了承ください。
逆に、ニールセンの Den danskesang er en ung blond pige について読みたい方は、目次から「国家を背負った作曲家」へ、交響曲 第6番「シンフォニア・センプリーチェ」については、記事②の「私もかつて、こういう音楽を奏でていた……なのに!」へ飛んでください。
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学生時代のわたしの音楽事情
そもそもニールセンとショスタコーヴィチが似ていることを知ったのは、クラシックを聴き始めたころなので、中学生か高校生ぐらいのころになります。
記憶もあいまいになってるのですが、ここでちょっくら、ニールセンについての思い出話をします(読むのがめんどくさい人は、目次から「あまりにも似ている2つの曲」に飛んでください)。
このころ、サロネンが来日して、ニールセンの交響曲 第5番を振ったのがNHK FMで放送されました(たしかN響だったと思うけど……もしかしたら、スェーデン放送交響楽団だったかもしれない)。
それからあまり日をおかずして、ブロムシュテットがN響で交響曲 第4番「不滅」を振り、ライブで放送されるという、ニールセンファンからしたら大事件、みたいなことがありました。
なぜ大事件かというと、このころ、つまり1990年前後になりますが、クラシック音楽に接するためには、FMをカセットテープに録音するか、CDやレコードを買うかしかありませんでした……てか、CD自体がまだ新しいメディアで、音質がどうのこうのとレコードと比較されがちだったんですよね。
しかも、インターネットなんて影も形もなかったから、クラシックのCD発売の情報は、毎月、厚さ3センチはあった「レコード芸術」をひたすらチェックするしかなかったんです。これがまた、ペラペラの薄い紙に印刷してあるから、見た目以上にページは多いし、重たいし!ほぼ電話帳、でした。
そのうえ、ブックオフのような大規模な中古CDショップもなかった時代なので、「欲しいものはレコード芸術に出てる中古CDショップの広告をひたすら読んで探す」しかない状況でした。
あらためて振り返ってみて、これがたった30年前のこととは思えないくらい、古いし不便でしたね。自分のこと語ってるのに、高度経済成長前の、両親が子どもの頃の田舎の暮らしを語ってるみたいな気分です。時間的にはインターネットが発達した「現在」の前夜なのに、中身は江戸時代の方がよっぽど近いように感じます。
あまりにクラシック音楽に接する機会が貧困だったので、この時代には戻りたくはないです。だけど、発見や発掘の楽しさや喜びだけは、今の何百倍もあった、ということについては、いまでも羨ましく感じます。
そんな状態だから、信じられないかもしれないけど、当時はそもそもニールセンのCDが国内で発売されてるかどうかも知りようがない状況でした。
だから「NHK FMで、2つの交響曲が続けざまに放送される!」なんて、まさしく奇跡中の奇跡。とくに「不滅」はニールセンが好きになったきっかけの曲なのに、第4楽章しか聴いたことがなくて、「とうとう全楽章聴ける日が来た!」と、N響の生放送聴きながらラジオの前で感涙にむせんでました。
もう、恥ずかしくて汗が出るくらい多感です……ティーンだったから、なおさら感激が激しかったんでしょうね。きっと。
この「不滅」の放送後、NHKも「ちょっくらニールセンに力を入れてみよう」と思ったらしく、一時期、FMのクラシック番組でわりと頻繁に取り上げてくれていました。
だから、その時期は、家では新聞のFM欄をチェックし、学校帰りに本屋に寄り道してTV雑誌の放送予定表をガッツりチェックして(もちろん立ち読み)、放送日には、朝から録音テープとタイマーをセットして登校し、なんとか放送時間内に間に合うようにダッシュで下校、放送がすみしだい、ダビングしてニールセンばっかり集めたオリジナルカセットテープを作る、って感じでした。
そのテープ、たぶん、いまでも、実家を探せば出てきます。
あまりにも似ている2つの曲 〜クラリネット協奏曲とピアノ協奏曲
そんなある日の放送で、ニールセンのクラリネット協奏曲が取り上げられました。このとき、「よく似てる曲」として、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲 第1番も同時に放送されました。
私はもちろん両方とも初聴だったのですが、それでもほんとによく似てると思いました。
まだ10代だったので、クラシック音楽自体の聴き込み量も足りないし、もちろん、ショスタコーヴィチの音楽についてもよく知らないし、つらつら書いてきた事情の通り、ニールセンの音楽自体も「これから知っていく」という状態でした。そんな状態であったにもかかわらず、「瓜二つくらいに似てる」と感じたのは、今でも異様なことに思います。
1:43あたりから、クラリネットと小太鼓がバトりはじめます。
ニールセンのクラリネット協奏曲は、独奏のクラリネットに小太鼓がガンガン絡んでいく!?という、未来感ハンパない曲です。ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲 第1番も、独奏のピアノに独奏のトランペットが絡み合いながら進行していくという、クセの強い曲です。
それだけでなく、「え、そっち行く!?」みたいな音の進行のしかたや、曲の途中で突然何かが飛び出てくる突飛さや、場面がころころ切り替わって目まぐるしい感じなんかが、ほんとうにお互いによく似ている。
当時の記憶や感じ方は正しかったのか確かめたくて、あらためてショスタコーヴィチを聴きなおしてみました。当たり前ですけども、やっぱりこの2つは全くの別の曲でした。
だけど、見かけは別人なのにレントゲンにかけたらニールセンと同じ形の骨格が見える……みたいな、つまり、ぶっちゃけ、「あなた、パクりませんでしたか?」とでもいうような、ざわざわぞわぞわする、独特の気持ち悪さが終始、耳から離れませんでした。
その気持ち悪さにたえられず、第2楽章まで聴くのが限界でした。
だいたい2:00からトランペットがからみはじめます。
当時、番組編成に携わった人は、もちろん、たくさんのクラシック音楽を聴いてきているわけだから、ショスタコーヴィチについてはよく知っていただろうと思います。
その人たちはむしろ、放送のために初めてニールセンを聴いて、「なんでこんなにショスタコーヴィチと似てるんだ!?」と、仰天したんじゃないでしょうか。
せっかくなので、ショスタコーヴィチの経歴を。
1906年生まれなので、1865年生まれのニールセンとは親子以上の年の差があります。
1919年の秋にペテルブルク音楽院に入学し、1925年に音楽院を卒業し、修了制作として交響曲 第1番を作曲しています。
このショスタコーヴィチの学生時代は、ニールセンが交響曲 第5番(1921〜22)、木管五重奏曲(1922)など、傑作中の傑作を作曲していた時期にあたります。また、クラリネット協奏曲につながる晩年の特徴を色濃く示す交響曲 第6番「シンフォニア・センプリーチェ」は1924〜25年です。
もしかしたら当時の国外の最新音楽事情として、ニールセンの新曲についての情報が音楽院の中で共有されていたのかもしれません。
また、田舎の貧乏な家庭に生まれ、幼少時に正規の音楽教育を受けることがなかったにもかかわらず、デンマークを代表する音楽家になった、というニールセンの経歴は、ある意味、ソ連共産党の「好み」にあいます。だからこれは完全な想像ですが、ソ連共産党に共鳴していた音楽家にとっては、ニールセンは偶像的な存在だった可能性も考えられます。
そして、件のピアノ協奏曲 第1番……
1933年に作曲され、その年のうちに初演されています。ニールセンのクラリネット協奏曲は1928年なので、先行しているのはニールセンのほうです。
だから、もし、影響を受けているとしたらショスタコーヴィチが、ということになります。しかもニールセンの没年は1931年……って、これって「よし、今なら真似てもクレーム出ないぞ」ってことか!?……なーんて、疑いはじめると、たいそう失礼なこととわかりながらも、なんだか、怪しく感じちゃう。
実際に影響があったのかどうか……めっちゃ気になりますが、それについては研究者におまかせするしかありません。なので、ここでいえるのは「可能性は、あってもおかしくなくない?……って気がする」っていう感想ていどのこと。
それに、影響があったとして、それによりショスタコーヴィチの評価が下がるわけではありません。むしろ、ニールセンのなかでも「もう宇宙に行っちゃったな……(キラーン)」みたいなぶっ飛んだ曲に目をつけたこと自体が慧眼である、と感嘆するほかありません。
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国家を背負った作曲家 〜バイオリン協奏曲 第1番
さて。
思い出話は終わりにして、7月14日の放送に戻ります。
この日放送されたショスタコーヴィチのバイオリン協奏曲 第1番 イ短調は、はじめて聴く曲でした。
番組の冒頭に、指揮者の下野竜也さんと、このときのコンサートマスター「まろ」こと篠崎史紀さんの対談がありましたが、そのなかで下野さんが、「いつもは表に出せないショスタコーヴィチの本音が出ている曲」というようなことを語っていたのが印象的でした。
たしかに、いかにもショスタコーヴィチっぽい「皮肉満載で全速前進」みたいなアグレッシブさはあまりない曲で、むしろ、深い悲しみをたたえて低回しているような感じがました。
ただ困ったことに私はニールセンファンなので、随所に「あー、似てる」「ここも似てる」「なんでこの曲もこんなに似てんだ?」なんて思いながら聴いてました。
ピアノ協奏曲のところでも述べましたが、
「え、そっち行く!?」みたいな音の進行のしかたや、曲の途中で突然何かが飛び出てくる突飛さや、場面がころころ切り替わって目まぐるしい感じ
は、このバイオリン協奏曲でも、やはり同じでした。
だけど、一方で。
……はやく終われはやく終われはやく終われはやく終われ……
って、無意識のうちに念じていたようで、曲が終わったらしんそこからほっとしてしまいました。
いま、うつなので、そのせいで音楽の許容範囲が狭くなっていて、ネガティブな曲はちょっと受け付けくなっている、というのもないわけではないです。
でも、それにしても「はやく終われ」はひどい。しかも、ニールセンを聴いていてそんな気持ちになったことは一度もありません。
こんなに似てるのに、なぜ?
って、文字通り太字で疑問が湧いてきました。
しかも、類似点は音楽だけではないんです。
祖国を代表する作曲家として、ふたりとも、国家を背負っていた
というところも一緒だ、ということに初めて気がつきました。
そしてなぜか、気づいた瞬間、ものすごいショックを受けました。
ニールセンがポジなら、ショスタコーヴィチはネガ
ショスタコーヴィチが背負っていたのは、スターリン独裁下のソ連でした。そもそも、音楽に表現の自由はありませんでした。そのうえ、ショスタコーヴィチ自身、才能を嘱望される一方で、当局からの毀誉褒貶の波に翻弄され通しでした。
自然、「オレ……何やってんだ?」的な苦々しいものが音楽に滲み出してくるとしても、むべもありません。
一方で、ニールセンが背負っていたデンマークという国は、1864年の第二次シュレスヴィヒ戦争の敗北の痛手からの回復や、第一次世界大戦という困難に直面し、いかに国民の愛国心をまとめあげ、国家として強く豊かになっていくか、ということが課題だったようです。
そんなわけで、ニールセンの書いた歌の中にも、国威発揚系の歌詞のものがあったりします。
ちょうど、英訳歌詞つきの動画がありました。
こうやって、誰かのおせっかいが誰かの役に立つところが、YouTubeバンザイ!で大好きです。
だけど、この歌、Den danske sang er en ung blond pige (デンマークの歌は、若い金髪の乙女)の素晴らしさは、女性が歌った方がより際立ちます。
この Den danske sang er en ung blond pige は、国歌の次ぐらいに重要な歌、というような記述を見たことがありますが、詳しいことがよくわかりません。
もし、ご存知の方がいたら、実際どうなのか、現地の事情等、教えていただけたらうれしく思います。m(_ _)m
聴けばわかるとおり、国威発揚系の曲にありがちな、「オレの国は世界一!」的な高揚感や、「胸熱にならないヤツは非国民」的な押し付けがましさとは、まったく無縁の曲です。
歌えばただ、野の風が吹き抜けていった爽やかさが胸に残るメロディです。その結果として、そんな爽やかな風の吹くデンマークという国を愛しく誇りに感じる、それが Den danske sang er en ung blond pige です。
幸いなことに、と言うのもなんですが、ニールセンは国を愛することと、国民を幸せにすることと、己の芸術を発展させることとを幸福に統一することができた、と言っていいのかもしれません。
当時のデンマークは、政治的にも、1849年に立憲君主制に移行し、1915年に女性参政権が認められ、さらに20世紀初頭に現在に至る福祉国家の基盤がつくられたりと、民主主義が前向きに前進していた時代だったようです(私は、ニールセンは、妻のアンネ・マリーが初めて選挙で投票した日は、夫としてめちゃくちゃ感激したんじゃないか、と勝手に想像しています)。
Den danske sang er en ung blond pige はデンマークという国のことを歌いながらも、歌の最後に、
sangen løfte sig ung og glad
(歌は、若さと喜びをもたらしてくれる)
※グーグル翻訳では løfte の意味がとらえにくかったので、雰囲気で訳しています。
と普遍的なことを歌っています。
そして、ニールセンのつけたメロディも、デンマーク一国のことを超えて、「歌とは何か?音楽とは何か?」という普遍的な問いへの答えとなっています。
極端な話、歌詞の意味はわからくてもいいのです。ただこのメロディをくりかえしていれば、精神の背骨がしゃんとし、眼の曇りがはれて体のなかが澄明になっていくのを感じられます。そうやって、「歌は自然の発露で、音楽は幸福の源である」というニールセンからの回答が、自然と体得されます。
そして、余韻のように、「国家とは、この幸福を親鳥のように羽翼で覆い、守るものである」と了解されます。
この曲も、ニールセンあるあるの「ふつう過ぎてうっかり良さを見逃す曲」のひとつです。
だけど、ショスタコーヴィチにはそれが十分には許されなかった。「普遍」を表現するために、いくつもの欺瞞と誤魔化しとで覆い隠さねばならなかった。
だって、なにはさておき、ソ連を賛美し、スターリンの逆鱗に触れないように注意せねば、命が危うかったのですから。
歴史に「もし」を持ち込んでもどうにもならないのですが、でも、もし、ショスタコーヴィチがもう少し自由で幸福な社会に生まれていたら……どこかシニカルで、真意を裏読みしたくなる音楽でなく、ニールセンのように、ずっともっとご機嫌で、ユーモアに満ちた音楽を残していたかも、なんて空想をしてしまいます。
逆にニールセンがソ連に生まれていたら、それはそれでニールセンらしいやり方でスターリンの抑圧に抵抗したことでしょう。だけど、ニールセンの音楽の核心である、万葉集の「ますらおぶり」にも似た幸福感や明るさや率直さは、永遠に損なわれたことでしょう。
互いに通じるもののある音楽を書きながら、全く違う国家を背負ってしまったばかりに、ニールセンがポジならショスタコーヴィチはネガ、と言っていいくらい対極的な音楽を残した。そこがソ連という国であったがゆえにショスタコーヴィチから失われてしまった可能性のこと思うと、暗澹たる気持ちがします。
私たちは生まれる国家は選べません。生まれる時代も選べません。当然、ショスタコーヴィチもニールセンも選べなかった。そのことを思うと、「生まれる」ことはまるで「全人生を賭けたガチャ」です。
だけど、今の私たちは「よりよく変える」ことはできます。それが、民主主義です。ガチャの歪みを正せる可能性がある私たちは、スターリンの死をひたすら待つしかなかったであろうショスタコーヴィチより、ずっとずっと運がいいし、幸せです。
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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。