濁りなき心の水にすむ月は波もくだけて光とぞなる
去年から瞑想にハマっています。そうこうしているうちに、お経を聴きながら瞑想したくなってきたので、見つけたのがこの「禅音」というアプリ。
これ、
はっきりいって、
サイコーです! (≧∀≦)b
……ふぅぅ。
なんか100年ぶりにこんなふうなはしゃいだ表現したような感じがする。
でもまだちょっと、このテンションの高さについていけるほど元気になってないなぁ……(´・ω・`)ショボーン
それはともかく、このアプリはほんとうにオススメです。
なんといっても、収録されている音がいい。
お経も鳥の声や箒の音などの環境音も、また、梵鐘や木魚、木板や大鏧(お寺にあるでっかいお鈴)といったマニアックな仏具の音にいたるまで、我が無く、あたかも禅寺の閑寂な一隅に佇んで、たまたま聞こえてきた音に耳を傾けているかのような心持ちがしてくるのです。
NHKのFMに、「音のある風景」というのがありますよね。ラジオから流れてくる音を耳にしているだけで情景が眼前に立ちあがってくるような気がするのがこの番組の特徴なのですが、このアプリも「音のある風景」のように、聴くだけでお寺のおごそかで清浄な空気が立ちあがってきます。なにせ、横着者の私ですら、このアプリに収録された音を聴きながら瞑想したあとは、つい、三つ指をついて「ありがとうございました」と頭を下げたくなってくるほどですから。「禅音」の音源の教化の力、半端ないです。
このアプリに収録されている音のなかでもとくに優れているのは、「仏の歌」というタイトルで収録されている御詠歌です。
この動画の冒頭に流れている歌がそうです。正式な曲名は、「坐禅御詠歌(浄心)」です。
まずは、お坊さんのなかには、こんなにもすぐれた歌い手がいるのか、という驚き。それから、伴奏もコーラスもバックダンサーもなにもなくても、メロディが屹然と一本立ちしている。こんなふうな存在のしかたをしている歌を、いままできいたことありません。また、こぶしの付与する微妙なニュアンス。整然と楽譜に音符として採譜でき、ピアノで弾くことのできる音符による音楽になれしたしんだ耳には、この世にはこのようなかそけき表現の世界があったのかと、印象が鮮烈です。
いやー、仏教、めっちゃすごい音楽遺産を隠し持ってる!
とにかく、音楽として、幾度聴いてもあきたらぬすばらしい歌です。民謡か戦後の歌謡曲のようなのびやかで素朴な旋律が(しかし、こぶしがつくことで鶯の声や蝋燭の炎の揺らぎのように複雑微妙になるんだけど)まるで「大人のための子守歌」のようにおもわれてきて、こころがやすらぎます。ただこの歌を聴くためだけにこのアプリ「禅音」をダウンロードしている、といっても過言ではないほどです。
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さて。
この御詠歌の歌詞ですが、道元の歌集「傘松道詠」におさめられている短歌、
になります。
月は仏教の教えを象徴している、とかなんとかかんとかはともかく、瞑想によりえられる心静かな境地をうたったものです。
私も最初は腑に落ちる解釈ができなかったのですが、最近やっと、納得できる解釈ができるようになってきました。
一般的な解釈とはへだたりがあるかもしれませんが、私はこの短歌を次のような映像としてとらえています。
水を張った盥は、まさしくひとの心を象徴しています。「濁りなき心の水にすむ月は」の部分は、瞑想することで得られる「明鏡止水」の心持ちであることは、いうまでもないとおもわれます。これが上の句のさし示すものです。
下の句の「波もくだけて光とぞなる」、最初はここがよくわかりませんでした。が、最近の、なにかにつけて亡くなった義父のことをおもい、自ずと涙が溢れる自分をかえりみて、やっと理解できるようになりました。ひとの心は、日ごろいかに動ぜぬように心がけていても、外からの刺激によって簡単に波立ってしまうもの。この下の句もまたことわざでたとえるなら、心穏やかにすごしたいと願ってもざわめきがやめられず、心が揺さぶられつづける「風樹の嘆」のこと、といいかえることができようかとおもいます。
この短歌は、「こころはおのれの努力によって落ち着かせることもできれば(上の句)、努力の域を超えてどうしようもなく揺れ動くこともある(下の句)、人生はその繰り返しである」という当たり前の事象を詩的に描写したもの、というのが、私の解釈の根幹になります。
そして、おそらく道元自身は、おのれのこころが「明鏡止水」の鏡のように落ち着いたり、「風樹の嘆」のごとくせんかたなく千々に乱れて波立ったりすることを、「こころとはそういうもの」とただあるがままにながめています。
虚空のかなたから盥のなかの「心の水」をのぞきこんでいる満月こそが、「こころのあるがままを認知し受容しようとする自分」を象徴している、と解釈すると、私にはこの歌がすっきりと理解できます。
あるがままを受容しようとするわけですから、こころが落ち着かないときは、月の映像も受動的に乱れます。落ち着けば、また、受動的に直ります。「心の水に棲む月」は、「澄む月」としてすっきりと像を結ぶ日もあれば、ゆらゆらと乱れて像を結ぶことができない日もあるわけです。しかし、月本体は、乱れも直りもしているわけではない。一転、目を夜空に移せば、そこには確たる輪郭を備えた望月がいつも浮かんでいる。これはまだ直感なのでうまくいえませんが、ここに、この歌が悟りへと導くしるべとなるゆえんがあるのだと、私は確信しています。
道元という人物については「厳しい」というイメージがありましたが、この歌からかいまみえる道元はやさしいというか、慈しみにあふれているというか、そんなふうに感じます。
道元はこころが乱れることを、「水が濁る」とか「月が欠ける」とか「光が翳る」とかといった、黒ずみや汚れをイメージさせることばではなく、「波もくだけて光とぞなる」とあくまでも清らかなイメージをたもったままのことばづかいで表現をしている。つまり、こころが乱れることを、罪としてジャッジしていない、とみなすことができるのではないでしょうか。それどころか、こころが乱れることの苦しさすらも「きらきらとかけがえのないものとして、人生の中で味わい尽くしなさい。そして、悟りへの糧としなさい」とやさしく受容し、そっと行く手を指し示してくれているように感じられるのです。
ただし、こころの乱れに飲み込まれて「心の水」を濁すようなことはあってはならぬ、いかなるときも夜空に浮かび地上を照らす望月のように、おのれを円満な状態で保持することを忘れるな、とも教え諭してくれているのかもしれません。
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この短歌「濁りなき心の水にすむ月は波もくだけて光とぞなる」については、ほかにも問いを立てて、
とかとか、文学として掘り下げてみるのもなかなかおもしろいです。
個人的にいちばん気になる問いは、コレ。
うーん……( ・ั﹏・ั)
それぞれを映像化すると、「月影だけがくだける」「波だけがくだける」イメージですよね。
だけど、「波もくだけて」だけは、「月影も波もともにくだける」イメージです。しかも、「も」という助詞のおかげで、「いやいやあなた、くだけるのは月影だけじゃないですよ! 波も一緒にですよ!」と反語というか念押しのような効果が出ているように思われます。そしてやはり、月影も波ももろともにくだけて光の粒になる映像は、映像としてとても美しい。
道元もあれこれ助詞をとりかえて、どれがしっくりくるか悩んだのかもしれないなぁ……なーんて想像すると、謹厳な禅宗の始祖も、なんだかきゅうに人間臭く感じられてきます。
きのうおとついくらいから、やっと、体調がもとにもどってきました。調子が悪いときはそれに必死で、感情を遮断していたのでしょうね、悲しいとか涙とか、ほとんどわいてきませんでした。それはそれで、「義父の死を悲しむべきときにちゃんと悲しむ」というプロセスが阻害されていたのでしんどかったのですが、ふたたび感受性が開放されて遺影を見るにつけ涙が溢れるようになると、それもまた、なかなかつらいものがあります。
この抑えがたい悲しみの波も、心の水の月影ともろともにくだけて、光、すなわち、御仏の教えに変じていくのだとしたら。我流の解釈ではありますが、道元がそう諭してくれている、と思うだけで、悲しみが癒え、こころが救われるような気がしてきます。
そんなふうな現代的な解釈も可能なのでは、とおもったりもします。
#短歌 #御詠歌 #道元 #瞑想 #悲しい #自己受容 #癒やし #月
いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。