文章と自分のリハビリ【Long版 ④】プラモ作文反省会
只今、こころの充電中につき。
一日一題、お題にそってものを書いて投稿するサイトに出したものより。
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今回は、まるで既成品のプラモデルを組み立てるかのようにお手軽に書いてしまった文章の反省会をします。
既存の、いかにもなイメージを組み合わせて文章を作っていたら、まるでプラモデルを組み立てているような、妙な気分になりました。そこで、こんなふうに新しいものを生みだすのでなく、組み合わせでプラモのように作文することを、とりあえず、「プラモ作文」と名付けてみました。
名付けたことにより、どこが自分のオリジナリティで、どこが既存のイメージによっかかった作文なのか、感覚的に区別しやすくなった気がします。
プラモ作文のいいところは、産みの苦しみがほぼほぼ不必要なので、とても楽なところです。
アカンところは、既存イメージの良し悪しを判断することなく、そのまま踏襲することです。こんなのもう、クリエイターを名乗る、もしくは志す以上、いちばんやったらアカンことです。次に掲げるいくつかの文章は、書きながら「あーあ、思考停止しとるがな……ははははは」とこころの中では乾いた笑いが生じておりましたです。
やればそれなりの分量は書けるし、それなりに面白いものもできる。だけど、あとから、気分が空虚。それが、プラモ作文です。いちおう、毎日書くのを目標にしているので、疲れたときは割り切ってプラモ作文でもなんでもすることにしてますが、こんな感覚、できたら味わいたくない、とおもいます。
ところで。そういえば私、noteを書くときの、これだけはまもる、という掟がひとつだけありました。それは、「クリエイター」と「作品」という単語は使わない、ということです。
もともとは、自分はクリエイターと名乗るだけの技量はないし、作品でござーるとドヤ顔できるほどのものもつくってないし、という意味でした。それに、この数年、このふたつの単語が社会のなかでインフレーションをおこしているような気がしませんか。私は、その風潮に疑問を感じているので、いつも別の言葉にいいかえるようにしています。その作業は逆に、「クリエイター」も「作品」も、使わねばならないときにしか使わない、ということにつながります。
だから、「作品」という単語は、これまで note では「ショスタコーヴィチの作った音楽」に対してしか用いていません。これは気がついたら自然にそうなってて、音楽や楽曲という言葉と入れ替えようとしたけど、手が頑強に拒否してできませんでした。たぶん、私のなかでは、ショスタコーヴィチの生み出したものは、音楽、という、歌う人間の体を媒介して増殖する半ば生命体であるような存在、とは違う、と感じているのでしょう。
で、さきほど、ついうっかり、「クリエイター」という単語を note で初めて書いてしまったのですが、うーん、と悩んで、最終的には消せませんでした。
さても、クリエイターってそもそもなんなんでしょう。世界最強のクリエイターは、キリスト教の神様です。だって、たった6日で天地創造してしまったんだもの。ということは、クリエイターたるもの、どんなに小規模であれ、その創作物の中には、ミクロな天地創造が仕掛けられていないといけない、ということになります。
そういう意味でなら、私はクリエイターである自信はあります。ていうか、たぶん存在のしかたそのものがクリエイターです。いかにちいさくとも、作りだしたもの毎に、新たな天地を創造して、授けてのける存在でありたい……まあ、だからこそ、note という場所を選んでいる、っていうのはあります。
……ということを、今回、うっかりと「クリエイター」と書いたことで自分の中に発見しました。だからといって、自分が「クリエイター」と名乗るのは違うとおもってるんですよね。「クリエイター」というのは、社会的な身分とか立場とかでなく、私の属性ってやつ、と理解するのが正確なのでないかとおもいます。なので、私が「クリエイター」と名乗るのは、自己紹介欄にわざわざ「黄色人種」と書いておく、ぐらいの強い違和感があります。
それはさておき。
これから反省会、開始します。
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① お題【声が聞こえる】
《声が聞こえる》というお題に対し、単純に、それは空耳だろ?、って。そうじゃなかったら、宇宙からのシグナルだよ……ってことで、
という話になりました。
このあらすじにたどりついた時点で、あぁ、なんてありがちな……と苦笑いしながら、やる気がへなへなっとなってました。
登場人物は、とりあえず男子高校生ってことにして、男子高校生のありがちといえば、
であろう、とおもわれました。
そこで、都合よく空耳が聞こえ、空耳が聞こえたこと自体も都合よくウヤムヤにできる場、ということで、
と、場を設定しました。
あらためてふりかえってみて、ホントに工夫もなにもないなぁ……としかいいようがないです。それでも若干の愛着があるのは、これまで書いた文章の 99.9% が、登場人物が 1〜2人であるなかで、唯一の5人もの登場人物がでてきた文章である、という、ちいさなチャレンジがあったからではないかとおもいます。そうはいっても、「君」「僕」「その他3人」ていどのあつかいなんですけどね。
だけど、できないなりに奮闘して5人分のセリフを書いたことで、なんだか、かこさとしさんの絵本「どろぼうがっこう」のなかの、生徒たちの返事、
みたいな、調子のよさとおかしみが出せたのではないか、とおもいます。
もうひとつは、
っていう、思いがつねづねあって。しかも、「これはヤバいんじゃない?」とだれかが予言しても、多数派のがやがやでかき消されてしまいがち、という無念もあって。
日ごろの思いを込めて寓話のように書けたのも、愛着がある一因かと思います。
② お題【ジャングルジム】
《ジャングルジム》って、子どものときはむやみに怖くて登れなかった、っていう思い出を物語化できないかと書いた文章です。
というせいもあり、以下の、
っていう部分以外、あんまり必要でなかったのではないか、という気持ちが、いまだにぬぐえません。
とりあえず、この主人公である「オレ」に都合よくジャングルジムについての思い出を思い出してもらうために、
という設定にしました。
さらに、ジャングルジムから降りて、話にオチを付けてもらうために、
という、月並みにほかならない思考をしてもらいました。
あらためて思うに、そんなことよりも、「ジャングルジムに登るのは怖かったけど、中を迷路がわりにうろうろするのは楽しかった」のは何故か、と自分の思い出を考察したほうが、もっと面白くできてたかもしれません。
でもたぶん、そこまでのエネルギーが残ってなかったんだろうなぁ……このとき。
③ お題【秋晴れ】
ついでなので、10月にはいってからのプラモ作文も反省しちゃいます。
この文章を書く数日前、近所の畑で焚き火をしていて、ちょうどその日は凪で、煙が真っ直ぐあがってたのが不思議だったのを思い出して。そこで、ソロキャンプで焚き火、って設定をかんがえたんだけど、疎くてピンとこなかったんですよね。
そしたら、いまごろって落ち鮎のシーズンじゃなかったっけ、と思い出したので、
という、いかにもな筋書きを思いつきました。
オチもどうにかつけなくてはならなくて、
という、安直な釣り人あるあるをもってきました。
「濡れる → 焚き火 → 見知らぬ人とコミュニケーション」っていう展開は、釣りマンガ「釣りキチ三平」でよく出るパターンです。「釣果ゼロで嫁にあわせる顔がない」っていうのも、マンガのほうの「釣りバカ日誌」でいく度かあったと思います。それらを月並みに堕せず、おもわず「あるある!」と惹きこまれるようなストーリーとして描けるなんて、プロってやっぱりすごい、とあらためて感じ入った次第です。
さて。もし、自分が鮎を釣る方だったら、たぶん各所に鮎釣りならではのリアリティを盛り込むことができたんだろうけど、いかんせん、私は「お父さんの釣ってきた鮎を食べまくる子ども」の方だったので、その限界はこえられませんでした。
また、父親ももうずっと釣りから離れているので、いまの時期の鮎ってまだ十分に抱卵してたっけ、それとも産卵がすんだ鮎のほうが多かったっけ?、みたいな基本的なことも記憶になく、主人公「俺」の食べた鮎から卵の描写を省かざるをえなかった、ってのが、残念の極み。だけど、いま思うに、そんなこと気にせず、腹ボテの鮎を主人公に食わしときゃよかった……。
ですが、ここ、
はじめは単に「鮎の身」としていたものを「錆びた鮎の身」とあらためたのですが、あらためた瞬間に、焚き火をしながら魚を焼く情景が秋の風情とぴたりと一致しはじめました。
一見、ささいな修正ですが、こーゆーの大事ですね。季語が入ることでたった17文字の俳句にリアリティが生まれるメカニズムを体感したような思いです。
正直なはなしをすると、
という以外の部分は、要らんかったな、という気持ちです。
ここだけ取り出して、俳句のように仕上げたらよかったかもです。逆にいうと、前後のストーリーをスパッと切って、ワンシーンを際立たせるのが俳句って、ことになるんでしょうか。うーん、俳句、偉大です。
④ お題【暗がりの中で】
かなり長くなってしまってますが、10月に発生したプラモ作文の反省をもうひとつ。
お題は「暗闇」でなく《暗がりの中で》。「暗闇」と「暗がり」のちがいってなんだろう、と頭をひねった結果、「暗がり」のほうには「ものかげで息をひそめてじっとちいさくなってる」ようなイメージが付帯する感じがしたので、「暗がりに隠れるからこそのワクワク」に焦点をあててみました。つまり、たぶんみんな、幼稚園で読み聞かされて育ってきた、古田足日の鉄板中の鉄板の絵本「おしいれのぼうけん」です。
そこで、子どものころの記憶をたぐって、
とかきだしてみたのですが、ここまで来た瞬間に、「ここでセリフを投入したら、思い出語りでなく、物語にできるかもしれない」とおもいつき、
と、自分の感想をセリフにして投入してみました。
だけど、正直なはなし、失敗でした……どうせなら、懐中電灯で手のひらをすかしたときの異様なあかさとか、「ぼくらはみんないきている」を音楽集会で歌うとき、かならず、懐中電灯と手の絵がうかんでたこととか書けばよかった……といまごろきがついちゃった。そういえば、やなせたかし先生も、懐中電灯で手をすかしてみたのがきっかけで、あの歌詞を書いたんですよね。
うーん、めっちゃ惜しいことをしてしまった。
ということで、
とかと、ありがちなアイデアを練り合わせただけで終わってしまいました。
唯一気にいっているのは、これを親の納骨を控えた晩の話にしたこと。最初は場面設定を、お通夜とかお葬式の後の精進落としのつもりにしてたんだけど、それにしては登場する兄弟がいささかはしゃぎすぎに思われたので、それらよりもうすこし後の日程に変更しました。
納骨堂や墓石の下の暗がりにひっそりと片付けられる骨壷のイメージがお題の《暗がりの中で》とマッチすることになったのは、まったくの偶然のたまもの。ラッキーでした。
あーっ、でもでも! 子ども時代の「暗がりは非日常で楽しい」という感覚と、死んだ後の「お墓の中の暗がりはポツンと静かすぎて寂しい」イメージ、もしくは「ご先祖大集合で意外と賑やか」という空想なんかをしっかり対比できてたら、まちがいなく面白くなってましたね……チクショウー!
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ということで。プラモ作文しちゃった文章を4つならべて反省してみました。4つもならべると、さすがに特徴というか共通点がうかびあがってくるような気がします。
まだしっかりとはつかみきれてないのですが、核心となるポイントは、③ の文章の反省で書いた、
ではないかと感じています。つまり、「錆びた」というひとことがつけ加わったことで、「読む」という行為が「目で文字を追う」にしかすぎなかった状態から、「身体感覚を呼び起こす」に変化したのではないか。
そこに着目すると、④ の文章の、
ところがお気に入りポイントになるのも、さらに、① の文章の会話のテンポのよさが好きなのも、うまく説明できます。
逆に、② の文章からは、いまひとつ魅力的なポイントがみいだせないのは、おもわず身体が揺り動かされるような表現がどこにもないから、であると考えられます。
ということは、文学的な書き物をするなら、
というようなことを意識しながら書くことで、脱プラモ作文できるようになれるのかもしれませんね。
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