どうして幸せになることが怖いのか
どうして幸せになることが辛いのか
どうして優しくされると心苦しいのか
どうしてなのか。
わたしは考えていた。
ひとつ答えが出た。
この記事に救われた。
そこにはすべて書いてあった。
そうだ、私は「心の安全の場」が幼少期から作られてこなかった
明日はわからない
明日は母や父の愛が安定して受け取れないかも知れない
私には「家庭」「家族」というものがなく
いわゆる「機能不全の家庭」の長女として育った
今だから言えるけど
虐待はあったし、言葉の暴力も、あった
数が数えられないからと辞書の表紙の硬い部分で殴られたり
算数の問題が解けないからとFAXの芯で頭を叩かれたり
ひらがなの「あ」と「お」が書けないから掃除機で頭を殴られたり
まだ脚がつかない椅子に座る私を、椅子ごと蹴り飛ばされたり
スイミングでゆっくり泳いでいたら後ろの子に抜かされることをイライラして見学していた母に帰られたり
地元の優秀な友達となにかあっては比べられたり
こんなことは一部にすぎない。
もしかして「こんなことザラにあるよ、大した事ないよ」という人もいるかもしれない。でも私にとっては今も傷が大きく残っている。
それでも私が腐らず、まっすぐに生きてこれたのは
出会った人たちのおかげとしか言いようがない
あとは学習環境もよかったと思う
3歳のときに離婚はしたけど、母の家庭が祖母のおかげで裕福なのもあり、中学受験を経て大学まで私立の女子校に通わせてもらった
社会人になり色々な経験をしたが、社会人初期、中期、後期、30代に入って、どの章でも素敵な人に出会えている
節々の選択と出会いが私の人格形成に大きく影響している。感謝しかない。
ただ、やはり家庭環境とは大きいもので。
今私はとっても幸せなのですが。
幸せが、ぎこちなく。
幸せを感じることがとっても怖い。
いつかこの幸せがなくなるんじゃないか
そんな事が起こったら私は耐えられない
何もできなかった幼少期の私のように
何もできない幼子が母に見捨てられそうになってドギマギしたり
ヒステリーを起こされないように機嫌をいつも伺っていたり
そんな経験はもうこりごり
「人はいつ裏切るかわからない」
そう心に刻まれている気がする。
だから
「いっそ私の方から切ろう、離れよう」
そんな言動や行動を取ってしまうようになる
友人関係や恋人関係、仕事の上でのコミュニティ形成でも大きく障害になっている
疑いたくないのに疑ってしまったり
信用したいのに信用できなかったり
自分自身にはなんの価値もない人間だと思ってしまったり
優しくされると心が張り裂けそうになったり、ガラスにヒビが入るように。居心地や安心感と同時に襲いかかる不安と戦っていて。
デフォルトがそれだから、いつも疲れる
「ポジティブなエネルギーを纏っている、明るい、華やか」
そんなことを本当によく言っていただける
でも、違うのだ
日々葛藤しているのだ
自分を卑下することをやめたいのに、「愛」の定着場がなく心がいつも不安なのだ。
いや、いつも不安だったのだな。
人格形成における幼少期のおいて「機能不全」の家庭だったのだから
あなたは生まれていなかったかもしれない
と言われていたから。
(生まれたことは必然で感謝をしています)
人のせいにすることも大事。私のせいじゃないと。
そう友人が言ってくれた。
インナーチャイルドを癒やしたら、涙が止まらなかった。
わんわんわんわん泣いていた。
当時の自分を、大好きな母に置いていかれそうになって大泣きしていた自分を
思い切り抱きしめようとおもう。たくさん泣こうとおもう。
自分は価値ある人間だよと。
私はまだ、彷徨っている。