『麒麟がくる』をやっと見終えた。で、すごい余韻。裏切りはいかに正当化されたか。
先週2月7日に最終回をむかえた「麒麟がくる」、途中録画が溜まっていた部分があって昨日やっと見終わった。
途中放送中断があったものの、当初の予定通りの放送回数で完結した。
結末が分かり切っている明智光秀の生涯をどうやって描くのか放送当初から楽しみにして見ていたのだけれど、すごかった。最終章の展開があまりに重厚で、見終わってこんなに余韻が残るドラマは久しぶりだ。
『どっち側から見るか』が違うだけで結末まで変わる
「麒麟がくる」はその歴史を『どっち側から見るか』に挑んだ作品だったように思うし、その視点が違うだけで結末まで変わってくると知らしめた話だった。
歴史物はすでに起こった事実を描いているから最終回を誰もが知っている。だから結末が変わってくるなんてこと本来は起きるはずもないのだけど、今回このドラマを見て『余白』の語りだけで事実の受け止め方がこんなにも変わるのだと衝撃を覚えた。
歴史上記録として残されているのはある一時点の事実だけで、その事実の背景にある人間の考えや意図は想像するしかない。事実の点と点を繋ぎ、その『余白』を何でどう埋めるかが、その物語の鍵となる。
そしてその想像の『余白』部分は、登場人物のキャラクターが豊かであればあるほど、誰の視点で語るかで結末まで変わってくる。事実は変わらなくても意味合いが全く異なるからだ。
「麒麟がくる」は光秀を物語の中心に据えることで、信長のキャラクターに新しい解釈を与えた。さらに二人の関係性も今までになく躍動的に描いている。
それにより、本能寺の変が今までにない結末となった。なぜ信長を殺したのか、納得せざるを得ない。
日本史上最大の裏切りの正当化に挑む
光秀が信長を裏切って殺害したという本能寺の変の事実は変えられない。その上で、いかに光秀の裏切りを正当化できるかがこのドラマの最重要ポイントだった。
この点において、第38話以降の信長に対する光秀の心の揺れ動きの描き方がすごい。この経過をじっくり見せることで、本能寺の変で信長が言った通り、この裏切りは「是非もなし(仕方ない)」だったと見る者に思わせる。
なぜ光秀が信長を裏切ったのかは諸説があるが、信長視点で描かれる場合、怨恨説が主であるように思う。「麒麟がくる」では光秀の『戦のない世の中』を作りたいという信念を一貫してぶらさずに描き切ったことで、裏切りの後ろの苦悩を痛いほどに伝えている。
怨恨なんて単純なことじゃない。
出会ったころ、信長と光秀の心は共に同じ場所を目指し共鳴しあったはずなのに、少しずつ少しずつ離れていってしまう。目指すゴール地点はずっと同じだからこそ、その埋まらない『ずれ』がとてもやるせなく、またそれゆえ、どうすることもできなかったと感じさせる。
かつては共鳴し合った仲だっただけに、最終回、本能寺での二人の表情に胸を打たれる。特に、光秀の桔梗の紋を見た時の信長役の染谷将太さんの表情がすごい。どうしたらあんな顔ができるのだろう。
フィクションとノンフィクションのバランス
歴史上、言ったとされる有名な言葉というのがいくつか存在している。今回の舞台であった時代にもあまりに有名な言葉があり、またそれがドラマのセリフとなっている。
「敵は本能寺にあり。我が敵は織田信長と申す。」
「是非もなし。」
これらの言葉はどういう意図で言われたかは定かではない。『言った』というノンフィクションに『なぜ?』というフィクションを上乗せすることで、その言葉の奥行きが圧倒的に深まる。ただそのバランスは難しいところだ。
今回このドラマはフィクションとノンフィクションのバランスについて様々な意見が交わされていたけれど、私は最後まで見て、心にどっしりくる見応えや余韻を感じて、結果的によく考えられた良いバランスだったのだと思っている。
とにかく今回の大河ドラマは大いに楽しませてもらった。最終回はすでに2回見た。もう何回かは見るでしょう。
大河ドラマは作り手も見る側もマラソンみたいなもので、とにかく”走りきる”というのが第一の関門になる。1年間同じ作品を見続けるって意外と大変だ。走り切った満足感に浸りながら、また今日から新しいマラソンを渋沢栄一と走ることとする。