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【霞始靆随感禄】思考欠如の系譜を読み解く
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ハンナ・アレントは、
「思考欠如」
を現代社会の危機と捉えて、そこに至る系譜を、本書に描こうとしました。
「人間の条件」(ちくま学芸文庫)ハンナ アレント(著)志水速雄(訳)
![](https://assets.st-note.com/img/1737178684-6ds1iRZJuhULcBQM80PAjKe3.jpg)
本書において、
「労働」
「仕事」
「活動」
の三要素を、
「人間の条件」
と定義し、近代において、
「労働」
が重要視された結果、以下の通り、
「私たちが労働者の社会に生きているというのは、ただ労働だけが、それに固有の繁殖力とともに、豊かさをもたらすように見えるからである。
・・・「生計を立てる」という観点から見ると、労働と関係のないすべての活動力は「趣味」となる。」(P188~190
「仕事」
と
「活動」
が軽視さた結果、バランスが崩れたことで、三要素の根底にあった
「思考」
にも影響が現れたと説いています。
因みにアレントのこの定義をシンプルに表現してみると、
・労働=物質的 ⇔ 仕事=文明的
・労働=私的領域 ⇔ 活動=公的領域
といった切り分けになります。
労働優位のもと訪れた消費社会により、以下の過程を辿ることで、
「世界と人間の世界性そのものを犠牲にする場合、はじめて富の蓄積過程が可能になる。」(P413)
次第に、
「私的領域」
が
「公的領域」
を浸食し始めました。
この変化は、消費経済の側面だけでなく、哲学の分野でも、デカルト以来、
「近代哲学は、魂や人格や人間一般には関心を示さず、もっぱら、自我にたいして関心を注ぎ、世界や他人との経験をすべて人間の内部における経験に還元しようと試みてきた。」(P411)
こうして五感を統合する
「共通感覚」
が
「理性」
に取って代わられることになりました。
「共通感覚というのは、ちょうど視覚が人間を眼に見える世界に適合させたように、かつては、まったく私的な感覚作用をもつにすぎない他のすべての感覚を共通世界に適合させていた感覚である。ところが、この共通感覚は、いまや、世界となんの関係もない内部的能力になったのである。」(P449)
そして共通感覚を失った人間は、
「所詮、推理することのできる、そして「結果を計算する」ことのできる動物以上のものではない。」P450
ひたすら効率性を追求するだけの
「思考欠如」
に、陥ってしまったと・・・
こんな作品が、1958年に書かれていた、というのは、驚きでしたね(^^;
■参考図書
「責任と判断」(ちくま学芸文庫)ハンナ アレント(著)ジェローム コーン(編)中山元(訳)
![](https://assets.st-note.com/img/1737178726-KThcXmzp0r4QNdEuwA3IOgU7.jpg)
「暗い時代の人々」(ちくま学芸文庫)ハンナ アレント(著)阿部斉(訳)
![](https://assets.st-note.com/img/1737178735-Vn8CAdPcvKXzy3hZqWxf7eT6.jpg)