【選書探訪:ちっちゃな本がでかいこと言うじゃないか】「生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却」安富歩(著)(NHKブックス)
キャッチコピー:佐藤澄子さん
[ 内容 ]
「消費依存」「ワーカホリック」「バブル現象」「環境破壊」…現代社会の生きづらさはどこからくるのか。
出来るかぎり自由であるために選択肢を増やそうと、私たちは貨幣に殺到し、学歴や地位の獲得に駆り立てられる。
アダム・スミスから現代の市場理論にまで通底する、“選択の自由”という希望こそが現代社会を呪縛しているのだ。
市場(イチバ)で飛び交う創発的コミュニケーションを出発点に、生を希求する人間の無意識下の情動を最大限に生かすことで、時代閉塞を乗り越える道を探究する、著者渾身の市場経済論。
[ 目次 ]
序章 市場の正体-シジョウからイチバへ
第1章 市場経済学の錬金術
第2章 「選択の自由」という牢獄
第3章 近代的自我の神学
第4章 創発とは何か
第5章 生命のダイナミクスを生かす
第6章 「共同体/市場」を超える道
第7章 自己欺瞞の経済的帰結
終章 生きるための経済学-ネクロエコノミーからビオエコノミーへ
[ 問題提起 ]
「決めたことには責任をとる」
よくある覚悟の言葉です。
しかし、同じことを「自己決定は自己責任を生む」と三人称的に言い換えたらどうなるか。
つまり、「いまのあなたは、あなたがなした決心と選択の賜物であり、あなたへの責任はあなたにある」と宣告したらどうなるか。
微妙な話ですが、そこに二つの落とし穴が空きます。
一つは、自分に課した倫理的な命題が、政治性を帯びた他者への宣告にすりかわること。
一つは、「決定→責任」という思考の順序が、「責任←決定」という形で恣意的に逆立ちすることです。
本書は、近代経済学が持つ空虚さを告発した本ですが、経済学者である著者が自分の首を絞めるような本を書いた裏には、おそらくそんな事情に対するいらだちがあったものと思われます。
[ 結論 ]
簡単に言うと、経済学には、数字はあるが生命がないということになるでしょうか。
経済学は、自由をめぐる学問でした。
自由主義経済という歴史的なタームが、そのことを端的に示しています。
マルクス主義も、自由に対するセーフティネットという意味では、広義の自由をめぐる思想の一つです。
しかし、いまの我々には、法律を籠絡しようとする意志はありますが、自由をめぐって思考を重ねようという高邁な粘り強さはありません。
いわゆる新自由主義が、脱・自由主義や自働主義と言いたくなるような、自由の軛を取り去った「持てる者」のわがままに過ぎないように、仮に機会均等や平等を叫んでも、自由の問題とはついに切り結ばない緊張感のなさが、社会主義崩壊以降の世界を蔽っているからです。
それにしても、「責任←決定」という逆立ちがなぜいけないのでしょう。
本書は、その点を入り口に既存の経済学を糾弾します。
論理が細かく、ときに回り道かと思えますが、あえて重要な箇所を指摘すれば、「自己決定」のためには「選択の自由」が欠かせないのに経済学がその事情に頓着しないことを示した件です。
さらに、その「選択の自由」が自明ではないことを、フロムの「自由からの逃走」を引いて考える件。
この二か所になると思います。
良書は、無批判に受け入れるべき情報の詰まった愛想のない器ではありません。
読者に考えるヒントを与え、著者を道しるべにして自分でも考える「場所」のようなものです。
上っ面しか問題にならない時代に、経済学を考え直そうという著者のドン=キホーテ的な長い旅立ちを良とします。
また、これは挑発的な本です。
近代経済学とマルクス経済学を重ねて一刀両断し、返す刀でそれらの近代思想の根底というべき、「選択の自由」という観念に挑戦するのです。
一方、著者の思考態度は真摯であって、しかも経済学、社会学、数学、物理学、東洋思想にわたる該博な知識に支えられています。
現代の学界が専門分化へ雪崩れをうつなかで、これは強く根源的であり、総合的であろうと志す本でもあります。
まず同意できるのは、選択の自由についての著者の批判です。
それは、主体としての自我を支えるどころか、逆にいっさいの意志的な行動を殺してしまいます。
意志が何でも無差別に選べるということは、何を選んでよいかという自己の基準を失うことだからです。
著者は、これをミヒャエル・エンデの寓話を例に説明していますが、実は、西洋哲学では、この逆説は古くから知られていました。
「複数の飼葉桶をもし等条件に並べると、驢馬はどれも選べなくなって餓死する」というものです。
さらに、私なりの補強をすれば、選択の自由の観念は、無限遡行を起こすことになります。
右に曲がるという選択は、学校へ行くという選択を前提にしますが、学校へ行くのは、勉強を選んだからであり、勉強を選択したのは、何を選んだからかと、きりがなくなります。
近代の通念を疑った、この本の原点は、正しいといえます。
そのうえで著者は、人間の自由の真の根源として、M・ポランニーの「暗黙知」と「創発」の観念を推奨します。
「暗黙知の次元」(ちくま学芸文庫)マイケル ポランニー(著)高橋勇夫(訳)
創発とは、心に知恵が湧くことであり、暗黙知とは、それが湧く心の動きの過程のことです。
この過程をただの神秘として黙殺したり、逆に、無数の神経活動の「協同現象」として合理化するのは、傲慢であると思います。
創発は、他に還元できない独自の現象であり、だからこそ自由な自我の根源と見なすことができるのではないでしょうか。
問題は、これが分析不可能な現象である上、これを促進する技術的な方法もないことだろうと考えられます。
ここからがこの本の真骨頂なのですが、著者は、問題解決の新しい手がかりを提唱しています。
創発を直接に促進する方法はないが、創発を妨害する心理過程を発見し、それを排除する方法を考えるのは可能である。
いうまでもなく知恵は、おのずから湧くものだから、その敵は、計算的手続きであり対象の意識的な考察だろうということです。
近代科学がするように主体を純粋に独立させ、それを外側から対象に対峙させることです。
これを避けるには、対象のなかに「住み込む」必要があり、主体の純粋化を防ぐ身体運動と、他人からの学習を思考の過程に組み込むほかなくなります。
身体運動が思考の飛躍に寄与することは、現代の脳神経科学も認めているし、日本の俗〓(ぞくげん)も「腹を決める」「腑に落ちる」などと言って傍証しています。
これを読んで、そういえばギリシャの哲学者は、逍遥を愛したし、古人は、知恵の湧く場所に「厠上、枕上、鞍上」を挙げていたことが、私の連想に浮かびました。
だけど、それ以上に大切なのは、他人との開かれた対話です。
そのさいとかく見られるように、対話者の一方が相手の像を独断的につくりあげ、その固定観念に向かって語るのは対話ではありません。
真の対話とは、まず二人の主体が存在してから始まるのではなく、言葉の往復という過程が最初にあって、そのなかから二人の主体が創発する現象なのであると考えられます。
この指摘は重要であって、自我や主体、自由意志がそもそもいかに誕生するか、という哲学問題にも示唆を与えてくれます。
自我の能動性は、受動的に成立するという、面白い逆説が成立しそうです。
当然、著者は、また現代の俗流思潮、「孤我と共同体」という二項対立をも否定します。
選択の自由が迷妄なら、選択以前の暖かい共同体も幻想であるとも述べています。
創発する自己と、それを生む対話さえあれば、前近代の古い共同体に甘える必要はないとも指摘しています。
グローバリズム批判がナショナリズムに帰っては、無意味なのでしょうね。
[ コメント ]
経済学改革への具体的提唱はありませんが、現代の市場の改革をめざす著者の視点も、ここから透けて見えます。
抽象的で顔の見えない「シジョウ」ではなく、生きた身体と対話が支える「イチバ」を回復しようという発言は、市場原理主義を斬る次の著作を期待させてくれます。
[ おまけ:今日の短歌 ]
「かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ」
中澤系『uta0001.txt』
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