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【新書が好き】言語の脳科学


1.前書き

「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

そこで、2024年6月から100日間連続で、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

2.新書はこんな本です

新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

なお、広い意味でとらえると、

「新書判の本はすべて新書」

なのですが、一般的に、

「新書」

という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

「ノベルズ」

と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

そのため、ある分野について学びたいときに、

「ネット記事の次に読む」

くらいのポジションとして、うってつけな本です。

3.新書を活用するメリット

「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

ネット記事が、あるトピックや分野への

「扉」

だとすると、新書は、

「玄関ホール」

に当たります。

建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

つまり、そのトピックや分野では、

どんな内容を扱っているのか?

どんなことが課題になっているのか?

という基本知識を、大まかに把握することができます。

新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

新書は、前述の通り、

「学びの玄関ホール」

として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

という場合が殆どだと思われます。

そのため、新書は、あくまでも、

「入門的な学習材料」

の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

マンガでも構いません。

5.新書選びで大切なこと

読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

新書についても同様です。

これは重要なので、強調しておきます。

もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

①興味を持てること

②内容がわかること

6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

そんな感じになるのです。

昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

◆「クールヘッドとウォームハート」

マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

彼は、こう言っていたそうです。

「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

「生くる」執行草舟(著)

まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

「文学以上に人生に必要なものはない」

と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

8.【乱読No.51】「言語の脳科学 脳はどのようにことばを生みだすか」(中公新書)酒井邦嘉(著)

[ 内容 ]
言語に規則があるのは、人間が言語を規則的に作ったためではなく、言語が自然法則に従っているからである―。
こうしたチョムスキーの言語生得説は激しい賛否を巻き起こしてきたが、最新の脳科学は、この主張を裏付けようとしている。
実験の積み重ねとMRI技術の向上によって、脳機能の分析は飛躍的な進歩を遂げた。
本書は、失語症や手話の研究も交えて、言語という究極の難問に、脳科学の視点から挑むものである。

[ 目次 ]
脳‐心‐言語
獲得と学習―人間はチンパンジーとどこが違うか
モジュール仮説―言語はどこまで分けられるか
普遍文法と言語獲得装置―言語学とは何か
言語の脳科学―言語はどのようにして調べられるか
言語の機能局在―言語に必要な脳の場所
言語野と失語―左脳と右脳の謎
自然言語処理―人工知能の挑戦
言語入力の脳メカニズム―単語から文へ
文法処理の脳メカニズム―文法は脳にある
手話への招待―音のない言葉の世界へ
言語獲得の謎―言葉はどのようにして身につくか
感受性期とは何か―子どもは言語の天才

[ 発見(気づき) ]
ヒトが動物の一つであることは間違いないが、同時にただの動物ではないのも確かだ。
ヒトがただの動物でないわけを突き詰めていくと、そこには自意識と言語がある。
この「ヒトをヒトたらしめているもの」は、しかし動物の進化の延長線上に生まれた。
それはモノとしての脳の「分泌物」であり、従って自然科学の一ジャンル、生物学の研究対象となるべきものだ。
ここに「言語の脳科学」が成立する根拠がある。
それはまぎれもなく言語学の一翼を担う筈である。
しかしこれまでの言語学は文系の領分とみなされていたし、上に述べたような理系的発想はまるでなかったのである。
本書はそんな空隙を突いて出た、全く新しい言語学を開拓する野心作といってよい。
著者は学生時代に物理学を専攻し、その後、遺伝学、大脳生理学、そして心理学と広範な学問分野をわたり歩き、その各領域で優れた実績をあげてきた。
そして今は、言語学の巨匠チョムスキーのグループと連携して、言語の脳科学の牽引車となっている。
著者を措いて他に、この挑戦的アプローチをとれる人は見当たらない。
チョムスキーの考え方を一言でいい表すなら、「発生の仕組みで体ができあがるのと同じように、脳に『言語器官』があって、言語も成長に従って決定される」となる。
現代の脳科学は、人間が何を考え、また心が動いた時に脳のどこがどのように活動するかを手にとるように観察できるようにした。
この技術によって、脳の「言語器官」の実体が、今着々と明らかにされつつあるのだ。
著者は「言語は心の一部」ととらえる。
そして「機械は心を持つことができるか?」の問いに明快に「イエス」と答える。
たとえその心を生む仕組みが、ヒトとは違っているにせよ。
ヒトとその他の動物を分かつ言語の本質、それを生む脳の仕組みを他ならぬヒトが解明している。
その先陣をきる研究の躍動が、読者の脳に直接伝わってくる。

[ 問題提起 ]
自分が日本語をどう覚えたかの記憶はない。
英語のように文法から憶えた記憶ももちろんない。
こどもも脳の成長に伴い近日のどこかで、言語を獲得していくはずで、毎日小さな変化の観察に興味は尽きない。
この本は、人間の脳が言語をどのように獲得し、使っているかの先端的な情報を一般向けに分かりやすく教えてくれる入門書。
計測装置の進歩により、人が物事を考えたり、話したりするとき、脳のどの活性化する部位を計測することができるようになった。
しかし、言語と脳の関係はまるで解明されていない。
分かっていないからこそ、この分野は熱い議論が交わされている。
この本ではチョムスキーの生成文法論を中心に言語と脳の深いつながりが解明されていく。
生成文法理論では、人間の脳には生まれつき、文法を処理する機構が備わっているとされる。
言語は学習によって後天的に身につけるものとする、従来型の言語理論とは異なる。
興味深い多数の実験結果の報告から、「普遍文法」の存在が裏づけられていく。
近年チョムスキーの生成文法論が人気があるのは、コンピュータの普及と関係があるのではないかと私は考えている。
主語はS、動詞はV、目的語はOと、記号化する。
例えば、日本語の構文は通常の文章(平叙文)ではSOVである。
英語、中国語はSVOである。
この本によると、ウェールズ語はVSO、マダガスカル語ではVOS。
理論的に組み合わせは6パターンが考えられるが、OSVになる言語は発見されていないそうだ。
記号化された言語の構造モデルを、いろいろなルールで構造変換することで、言葉のバリエーションが生まれる。
例外だらけの自然言語という考えと違って、コンピュータで扱いやすい理論であり。
今日のコンピュータによる言語処理や意味解析の研究に大きな影響を与えていると言われる。
三菱総研のKnowledgistというソフトがある。
これは、英語文書の構文を解析しS、V、Oのモデルを抽出した後、「やりたいこと→実現方法」を発見できるという野心的なソフトである。
同社の解説では、
「自然言語処理技術を長年研究してきた米国インベンションマシン社が、
「科学技術に関する文書では、述語と目的語の組み合わせが「やりたいこと=問題」を、主語が「その実現方法(解決策)」を意味しており、技術分野のコンセプトはこの形式で表現できる。」
ことを発見したことがベースになっています。」
とのことだ。
こういったソフトウェアはチョムスキー的アプローチのビジネス応用と言えそうだ。
チョムスキーは同時に政治的活動を派手に展開していることも人気の秘密なのかも。

[ 教訓 ]
「言語の脳科学」は、認知脳科学の現状と展望について、特に脳における言語の獲得と処理の問題を中心に概説している。
「脳はどのようにことばを生みだすか」という副題が本書の中心テーマを簡潔に示している。
この探求の基本となる考え方は<脳─心─言語>の階層性である。
つまり言語は心の一部であり、心は脳の働きである、ということである。
この前提に立って、言語を科学(サイエンス)の対象としなければならない。
言語学は人文系、脳科学は理系という旧来の研究体制を越えた「人間科学」を確立すべきであり、「言語の脳科学」はその一部である、というのが著者の立場である。
いきなり脱線するが、私はこれを読んで、
■養老孟司の「唯脳論」

■岸田秀の「唯幻論」

■丸山圭三郎の「唯言論」

を思い出さずにいられなかった。
乱暴に要約すれば、唯脳論は「我々が経験しうることの全ては脳の中の出来事である」と言い、唯幻論は「我々は幻想の中に生きている」と言い、唯言論は「世界を世界たらしめているのはコトバだ」と言っている。
世界はコトバであり、世界は幻想であり、世界は脳の中にある。
この三者の説くところを<生理学(解剖学)─心理学─言語学>の階層性という文脈に置いてみると、その類似性と相互関係が明らかになるように思われる。
さて、著者は「言語の脳科学を構成するのは物理学・情報科学・生理学・神経科学・心理学・哲学・言語学など」であると述べている。
このいわゆる学際的アプローチは、単に並列的な関係に留まることはできない。
それは例えば脳科学による言語学批判や言語学による脳科学批判の契機とならなければならない。
著者は、脳がどのように言語を獲得し処理しているのかを考えるとき、文法こそ最も重要だと指摘し、これまでの「脳とコトバ」の研究では、文法の問題が軽視もしくは無視されている、と言いう。
言語は人間に特有の能力である。
そして、他の動物が持つコミュニケーション能力と人間の言語の決定的な違いは、文法の存在にある。
「言語の発達過程にある幼児が耳にする言葉は、多くの言い間違いや不完全な文を含んでおり、限りある言語データしか与えられない。それにもかかわらず、どうしてほとんど無限に近い文を発話したり解釈したりできるようになるのだろうか」という疑問を「プラトンの問題」と呼ぶのだそうだ。
そして著者は、この問題を合理的に説明しうる唯一の仮説はチョムスキーの生成文法論であるとしている。
幼児が言語を獲得する過程で、新しい言葉を覚えて語彙を増やしていくことは一般的な学習の機能で説明できるが、文法を覚えることはそれだけでは説明がつかない。
これが「プラトンの問題」であるわけであるが、生成文法論は、人間の脳には遺伝的・生得的に「文法のもと」が準備されていると考える。
これについては私の曖昧な要約ではなく本書にあたられるか、あるいは直接チョムスキーをお読み頂きたい。
著者の研究は、チョムスキーの理論的予想を脳科学で実証することにあると言っても良いであろう。
チョムスキー自身はこう言っている。
「生物学的に必然的であるような言語の諸特質に関する研究は自然科学の一部分である。
その関心事は、人類遺伝学の一側面、つまり生得的言語能力の本質を確定することである。
ことによるとこのような努力をすることは誤っているかもしれない。
生得的言語能力などというものは存在せず、ただ言語であれ他のいかなるものであれ、それに適用されるなんらかの一般的学習方式があるのみであるということが見出されるかもしれない。
もしそうだとすれば、私のいう意味での普遍文法は、認知の一般的諸原則を別にすれば、たずね求める答を持たないであろうという点で、空虚なものとなろう。
しかしもしそうだとしても、人間言語の生物学的に必然的であるような諸特質(そうしたものがあるとすれば)の研究として構想された普遍文法は、厳密な意味で科学の一部分である。」(N・チョムスキー「ことばと認識」より)
先に述べたように、著者は言語を科学の対象として捉えている。
しかし「問題は、言語・発達・教育の研究の基盤が極端に文系に偏っていることにある。文系だから、逸話的な記述に専念して、科学的な厳密性や再現性を欠いてもよいということにはならない。
また、文系の研究者が、脳機能の計測法などの科学的手段を用いてはならないという不文律もない。
それにもかかわらず、研究費や研究スペース、研究スタッフの数といった研究の必要条件のすべてが、文系の研究室には不足している。」という現状の中で、言語の脳科学はまだ始ったばかりなのだそうである。
かつて「脳と言語」の研究と言えば失語症研究が主だったと思う。
脳の損傷部位とそれによる失語症の症状から、言語の諸機能が脳のどこで処理されているのかを調べるわけで、本書でも取上げられている。
しかしこれには当然の制約がある。
新たに脳の言語処理研究の展望を開いたのは脳機能イメージング技術の進歩であった。
現在ではMRIなどを用いて活動中の脳の状態を観察できるようになり、多くの知見が得られていることが紹介されている。
これは大変興味深いものであった。
それから、手話について特に1章が宛てられている。
手話は人工的に作られたものではなく、その本質は自然言語なのだそうである。
蒙を啓かれる思いがした。
また、脳には言語の文法判断に特化して働く中枢があるという。
それを実験でつきとめた酒井は、チョムスキーが唱えた「普遍文法」の発想に立脚し、人間の脳は言語の基盤を生まれつき備えていると明快に述べる。

[ 結論 ]
1.言語がすぐにしっかり身につく謎
幼児は驚くほどスピーディーかつスムーズに言語を覚えていく。
考えてみれば不思議ではないだろうか。
言語という複雑な仕組みを、まだ知能の高まっていない段階で、しかもそれほど多くの正しい文例に触れるわけでもないのに、完全に身につけてしまうのだから。
やはり、言語を聞きわけ自らも話すための基盤を赤ちゃんは持って生まれてくると考えざるをえない。
いや、だったら人間の能力なんてすべて生まれつきの身体が基盤じゃないか、と言うことにもなる。
しかし、言語をたとえば水泳やピアノと比較すると、そこに一線が引けそうだと気づく。赤ちゃんを水の中に放り込んでも泳ぎはしないだろう。
ピアノをひとりでに弾きこなすこともないだろう。
ところが言語だけは、ほとんどの子供が特別な訓練なしにしかも同一の水準にまで間違いなく達する。
言語はまっさらな頭で一から学習していくのではない。
言語能力のなんらかの原型が最初から備わっているに違いない。
「…クモが巣の作り方を知っているのと同じような意味で、人間も言語の使い方を知っている」。
スティーブン・ピンカーはそう書いている(『言語を生みだす本能』椋田直子訳)。

鳥が教わらなくても空を飛ぶのも、また同じ。
人間は「言語を話すようになる動物」と言えるだろう。
では、その生得的な言語の基盤とはどのようなものなのか。
2.チョムスキーの「普遍文法」
ここにノーム・チョムスキーが登場する。
ご存知のとおり、チョムスキーは「普遍文法」と呼ばれる理論を唱えた。
ポイントはたぶん2つ。
 1 あらゆる言語に共通する基本ルールがある
 2 その基本ルールは脳に由来する
それぞれ言語学および生物学の仮説ということになるだろう。
3.言語には共通の基本ルールがある
「あらゆる言語に共通する基本ルール」。
チョムスキーは実際に言語を分析するなかでそれを抽出してきた。
その理論は長年にわたる構築と変遷があって要約は難しい。
だいたい分かった範囲でさっくり述べると。
たとえば「私はリンゴを食べる」という文は、「リンゴを+食べる」という結びつきの上に「私は」を乗せた形をしている。
「私は+リンゴを」と結びついたり、その上に「食べる」が乗ったりはしない。
もっと複雑な文「私は台所で母とリンゴを食べる」であれば、「リンゴを+食べる」がまず結びつき、その上に「台所で」と「母と」があり、それら全体の上に「私は」が乗っている。
つまり、文はただ一直線に並んでいるようで、実は枝分かれの場所と段階がきちんと決まっているわけだ。
この基本ルールはあらゆる言語に共通という。
また、文の部分である句のレベルでもルールが見出せる。
たとえば名詞句「ピカソの絵」なら、「ピカソ」についてではなく「絵」について何ごとかを述べている。
「ピカソ」と「絵」とは、句のなかで役割が違うし順序も決まっている。
「ピカソの絵」が「絵のピカソ」とはならない。
要するに「句には重点があって後にくる」(日本語の場合)というルールだ。
もっと長い句「玄関の壁のピカソの絵」でも、やはり重点は1つ「絵」であり、最後にきている。
しかもこのルールは動詞句や形容詞句などにも当てはまる。
たとえば動詞句「リンゴを食べる」なら「食べる」が重点で後にくる。
「母と台所でリンゴを食べる」となっても、やはり重点は1つ「食べる」で最後にくる。このルールは、英語などであれば「後にくる」が「前にくる」と変化はするけれど、原則は言語を超えて成立しているとされる。
ここで想起されるのは、日本語であれ英語であれ、主語・動詞・目的語という要素が取り出せるという事実だ。
もちろん日本語はSOV、英語はSVOと語順が異なるけれど、そもそもS・V・Oという区分けができること自体、またおのおのの言語で基本の順序が決まっていること自体、単純にして重大な共通ルールと言える。
そうでない言語は存在しないとされている。
いずれも「当たり前じゃないかそれ」という印象だろうか。
しかし普遍文法とは、それくらい原則的で抽象的な次元の話だと思われる。(正確にはチョムスキーの原著や解説書を)
4.言語のルールは脳に由来する
そして、言語がこうなっているのは、ズバリ脳がそうなっているからだと、チョムスキーは主張した。
もちろん、こういう言い方もまた、どんな行動にも当てはまるだろう。
人間が笑うのも人間が歩くのも、つまりは人間の脳がそうなっているからだと。
しかし、「言語の普遍文法が脳に由来する」というのは、単に「言語は脳に由来する」というのとは違って、はるかに強力な主張だ。
たとえ話をするなら、脳という畑では土壌や日光の作用によって記憶や感情が採れるのと同じように言語も採れる、という主張をしているだけではない。
脳という畑には、土や光はもちろん作用するが、そもそも言語のために特別に作られた温室があるのだと、しかもそれはこんな装備なのだと、そこまで踏み込んだ理論をチョムスキーは示していることになる。
話はややそれるが、人間の脳は無数のニューロンが複雑なネットワークを形成することで高度な認知を可能にしていると、一般に考えられる。
その仕組みを説明するモデルの1つに「コネクショニズム」というものがある。
コネクショニズムのモデルでは、無数のニューロンは目指すべきネットワークの設計図を与えられていない。
入力に応じてあてずっぽうのネットワークを何度も試しながら出力を調整していくうちに、やがて妥当なネットワークが自動的に形成されていく。
さて、言語については、チョムスキーが考えたような生得説と、それと対照的な学習説の対立が続いてきた。
言語は一から学習するのだという考えは、脳には普遍文法という設計図など存在しないという立場だ。
これは言ってみれば、コネクショニズムだけで言語という認知機能すべてが形成可能と考えるのに等しいのではないか。
コネクショニズムは非常に面白い発想だし、実際にニューロンはいくらかはそうした自律的なネットワークをするのだろう。
しかし、言語というかなり複雑でしかもかなり特殊な機構を誰もが同じく実現してしまうのだから、やはり設計図がまったく関与しないと考えるには無理がある。
5.原理とパラメータ
ところで素朴な疑問が出るだろう。
普遍文法が1つなら、どうして実際に出力される言語は日本語になったり英語になったりするのかと。
これには「原理とパラメータ」という図式の説明がなされる。
普遍文法の「原理」は脳のなかで万人共通であり、そこに環境から実際の文例が与えられると普遍文法の「パラメータ(媒介変数)」が決まり、そうして日本語や英語など個別の文法が出てくるというのだ。
たとえば、「S・V・Oがある」「語順がある」というのが原理なら、それが「SVO」か「SOV」かというパラメータは実際に触れた言語に応じて1つに決まるということ。句の重点が「後」になるか「前」になるかも、同じパラメータに従っているとみることもできる。
例えば普遍文法をギターにたとえてみる。
人間の脳はギターを生まれつき持っているとしよう。
弦の本数や長さ太さは誰しも同じだ(普遍文法)。
そこに、あるギターのサウンドが聞こえてくる(日本語の例文)。
すると、脳は自らのギターを操作し、そのサウンドに合ったチューニングや弦の押さえ方を探り当てる(日本語の文法)。
だから自分も同じサウンドがすぐにしっかり出せるようになる(日本語の獲得)。
聞こえてきたのが別のサウンド(英語の例文)なら、ギターの弦は同じでも、チューニングやコードを今度はそちらに合わせ、自分もそのサウンドを出せるようになる(英語の獲得)。
しかし、もし脳がそもそもギターを持っていなければ、こうしたサウンドを耳にしても、それが何かが分からず、いずれのサウンドも出すことはできない。
しかしこのたとえは、酒井によれば、声帯が音声の出し方を決めるイメージに近く、普遍文法の説明には「?」とのこと。
6.言語は自然現象
こうした考えの根本には「言語は自然現象である」という視点がある。
脳は心を生みだす。
その心の働きの1つが言語である。
したがって、言語は脳という自然現象のうちにありサイエンスの対象となる。
酒井の立場はこのように明快だ。
さらにこう述べる。
言語とは何かという究極の問いに答えるためには、脳が言語をどう生みだしているのかを明らかにする必要がある、と。
言われてみれば当たり前なのだが、言語はふだん社会や文化の現象として言及されることが多いせいか、かなり新鮮に響く。
この視点では、言語は、人間が作った側面はあるものの、そもそも脳によって決められた規則に従っていると考える。
つまり言語は自然現象として限定されており、勝手に変えることはできない。
また、そうした自然言語だからこそ自動的に話せるようになるのであり、コンピュータ言語などの人工言語であれば、幼児が訓練なしに身に付けることはないはずと、酒井は言う。
7.文法こそ言語の本質
もうひとつ酒井の明快な立場は、「言語の本質は文法にある」と考える点にある。
このことは以下の2つに関係する。
1つは、言語は単語に注目すると多様にしか見えないということ。
単語と意味のつながりは恣意的であり、言語を超えた共通性はまったくない。
これに対してチョムスキーは、言語から意味を消し去り、文の構造だけを分析することで普遍文法を見出すことになった。
もう1つは、人間の言語の特異さが文を作れる点にあること。
その根拠として、チンパンジーに手のサインによる単語を教えそれを使わせたアメリカの実験が挙げられる。
そのチンパンジーが使った最長のサインは、「ちょうだい、オレンジ、わたし、ちょうだい、たべる、オレンジ、わたし、たべる、オレンジ、ちょうだい、わたし、たべる、オレンジ、ちょうだい、わたし、あなた」というものだった。
単語は扱えても、それを並べる規則は生みだすことも教えることもできなかったというのだ。
チンパンジーのこのような行動は、あるキーワードに対してある反応を当てはめる「連想」の能力にすぎないという。
しかも連想の能力は、チンパンジーなどの類人猿だけでなく猿や犬にもある。
これは人間の言語とは本質的に異なると酒井は考える。
たしかに犬も我々の言葉に応じて行動するが、だからといって我々と同じように言語を理解しているとは言いがたい。
8.言語学に挑む脳科学
というわけで、「言語がこうなっているのは、脳がそうなっているからだ」というのがチョムスキーなら、「脳はたしかにこうなっている」と実証しようというのが、酒井だ。
言語学と脳科学の関係は、理論物理学と実験物理学の関係に似ていると、酒井は言う。
言語学の理論を脳科学の実験が裏付ける。
とりわけ普遍文法という理論が正しいのであれば、それは脳の活動や仕組みとして解明できるはずだと期待をかける。
また、チョムスキーが画期的だったのは、多様な言語について従来のようにただ分類したのではなく共通の法則を打ち立てたことにあると言う。
それは、生物学においてダーウィンが分類だけの段階を脱して進化という法則を示したのと同じだと。
しかもダーウィンの学説は、種を定める遺伝子の発想につながり、その実体はやがてDNAとして発見された。
これに倣えば、普遍文法という学説に応じて何らかの実体を生物学的に見出すことが脳科学の役割ということになる。
9.酒井さんの脳科学実験
こうした言語論や言語観を踏まえて、酒井さは、人間の言語の本質というべき文法が脳の機能としてどのように実現されるのかを解明しようと、脳科学の実験に取り組んでいる。実験では「fMRI(機能的磁気共鳴映像法)」と呼ばれる手法が主に用いられる。
早い話が、脳の活動そのものを脳の外部から可視化できる優れものだ。
脳は活発に活動している部位の血流が増え、それに伴って磁性がわずかに変わる。
そこで、磁場を発生させる特殊な装置の中に頭部を置くことで、脳の活動(=血流の変化=磁性の変化)が測定できるという仕組み。
解像度はミリ単位・秒単位という。
酒井は、この手法でまず、我々が言語の文法を使った判断をしている時と、記憶を使った判断をしている時とで、脳の活動に違いがないかを調べた。
詳しくはこちら →

実験の結果、文法判断をしている時には、左脳前頭葉にある赤い部分が目立って活動していることが分かった。
これに対し、記憶を使った判断では、べつの緑の領域で活動が目立った。
この赤い領域は「ブローカ野」と呼ばれる部位だ。
古くから失語症の患者の多くはブローカ野に損傷があることが知られ、この部位が言語になんらか関係すると推測されてきた。
ただこれまでは、部位の特定が厳密ではなく、またブローカ野の損傷で起こるのが言語の障害なのか記憶などの障害なのかも曖昧だったという。
今回の実験によって、ブローカ野が言語の中枢であること、しかも文法の中枢であることがはっきりしたと、酒井さんは考察している。
こうして明らかになった文法とブローカ野の関係を、酒井は別の実験でさらに検証した。しかも今度は、言語の働きのうち文法と意味の判断を区別してブローカ野との関係を調べた。
この実験では別の装置が用いられ、被験者が文法や意味の判断をしている時に、被験者のブローカ野に磁気刺激を与えてみた。
つまり、文法の中枢とみられる部位の活動を促進させることで、文法の判断が変化するかどうかを確かめたわけだ。
詳しくは →

興味深い結果が現れた。
文法の判断をしている時にブローカ野を適切に刺激すると、反応時間が通常より速くなったのだ。
ところが、意味の判断ではブローカ野を刺激しても反応時間は変わらなかった。
また、同じ文法判断でもブローカ野以外の刺激では反応時間は変わらなかった。
これによって「ブローカ野は文法中枢である」という主張が補強できたと酒井は考察する。
また、文法と意味は脳のなかでそれぞれモジュール性を持って局在していることの証しにもなったとしている。
ここに挙げた2つの研究成果は米国の専門雑誌『ニューロン』にそれぞれ掲載された。
ブローカ野が文法中枢であることが脳科学の実験で実証されたのは世界で初めてという。文法中枢に関する実験を酒井はさらに進めている。

10.まとめ
言語に関して私はこれまでも驚異的な発想に出会ってきたと思う。
「事物は言語という差異の体系にしたがって分節される」とみたソシュール。
「語の意味とは、言語におけるその使用である」と述べたウィトゲンシュタイン。
チョムスキーの「普遍文法」という考えは、それに勝るとも劣らぬ衝撃だ。
しかも言語を捉える視点はまったく別のところにある。
それゆえ、今回「あそうか!」と初めてはっきり認識した点は少なくない。
これまでは漠然とこう考えていた。
生物の行動や意識には、「何かを何かそのものとして」ではなく「何かを何か別のまとまりとして」受けとめる作用、つまり「ものごとを抽象化し表象として捉える」作用が、広く成立しているとみることができる。
それが高度化し複雑化した形の1つが言語なのだろう。
したがって、動物であれ昆虫であれ、なんらかシンボル的なものを形成し操作しているなら、それは言語の原型にちがいない。
人間の脳においても、知覚・記憶・思考といった作用が純化され統合されるところに、言語は自ずと発生してくるのではないか。
しかし、今はこう考え直しつつある。
どうやら人間だけが規則に従った言語を使える。
人間だけが新しい初めての文をいくらでも生みだせる。
人間の言語のエッセンスはこの点にあると言わざるをえない。
言語か言語でないかの分水嶺をここにみることにも合理性がある。
結局、人間の言語は他の動物の認知とは別格、人間の認知のなかでも別格とみるべきだろう。
繰り返すが、チョムスキーは語ではなく文に注目した。
意味ではなく文法に注目した。
それが慧眼だったと評される。
単語を扱えることと文を扱えることの差がこれほど決定的であるとは、私はあまり実感していなかった。
しかし、単語やシンボルの形成や操作だけでは、人間の言語の特異性や汎用性は説明できないようだ。
「言語は本能に拠る」「言語の基盤は脳にある」といった言い方を、これまでは自明としか感じられず、それが意味することの重大さに気づいていなかった。
これまた繰り返しになるが、「言語が脳にある」というのは、脳という茫漠とした砂の山が風に吹かれているうちに言語という不思議な造形がなんとなく出来ました、などとイメージするだけではとても足りない。
言語という造形を自動的に形成してしまうほどの骨組みが、いわば砂粒の精緻なつながりとして最初から脳にある、ということになるだろう。
人間と動物を、あるいは人間のうちでも言語と他の認知を、地続きで捉えているかぎり、脳が言語をどう作り上げるかなんて漠然としていても気にならなかった。
しかし、人間の言語だけが特異であり、その特異さとはすなわち規則に従って文を作ることであると、そこまで前提がはっきりしてくると、見きわめるべき言語の輪郭も明快になってくる。
そうなると、鮮やかに輪郭づけられた人間の言語が、では脳にどのような設計図を持つのか、その探求はかなり具体性を帯びてくる。
しかしそうなると、言語という謎は文法という謎としていっそう先鋭化してくるようでもある。
人間は言語を必ず文法という制約のなかで使う。
たとえば我々がある情景を見たとき、「主語と動詞」つまり「これこれの主体があって、これこれの動き(や性質)をしている」と分析する形でしか言語を運用できないということだ。
すると根本的に問いたくなるのは、それは我々の思考自体がそもそも「主体と動き」という形をとっているからなのか。
それとも、思考はもっと自由だが言語がその形だから結局その形でしか結実しないのか。
どっちなのだろう。
思考が言語に制限されると考えるのはやっぱり誤りなのだろうか。
この疑問は私のなかではさらに膨らんでいく。

[ コメント ]
環境や自己をふくめた現実のことごとくを、たとえばこうした「主体と動き」という分析へと導いてしまう力、世界をそのように受けとめる形式というのは、元来どこにあると言えばいいのだろう。
言語にあるのか思考にあるのかを問うだけではすまない。
人間を超えた生物全体が実はその認知形式だけは踏まえている、ということはないのだろうか。
地球を超えても銀河を超えてもそうだ、ということはないのだろうか。
それどころか、もしやこの宇宙は結局「主語+動詞」という言語に馴じむように最初から出来ていたのではないか・・・さすがにそうは思えない?
そうするとさっきのところに戻って、「主体と動き」という分析の形式は、人間の言語だけにあるのか人間の思考全般にあるのか、あるいは人間だけでないならどの程度の動物にまであるのか、といった線引きが必要になってくる。
さらに。
「主体+動き」よりもっと根源的に思えること。
たとえば、我々の文は必ず疑問文や否定文を作れる。
さあ、ではこの「疑問」や「否定」とは言語だけに特有の現象なのか。
それとも思考自体に、あるいは知覚や記憶や感情といった広い範囲のなかにも「疑問」や「否定」という作用はあるのか。
そうだとしたら、生物はみなその形をなんらかの実質として持つのか。
それもまた地球や銀河を超えるのか・・・
もちろん、「主体+動き」や「肯定・否定・疑問」といった枠は、宇宙を我々が捉えるための方便であることは間違いない。
この莫とした宇宙を我々が時間や空間といった枠を当てはめて捉えるのと同じことだ。
そうではあるのだが、言語を自然現象とするならば、人間の言語がこうなった必然は、その自然のどのあたりに由来するのか、という問いはありうると思う。

9.参考記事

<書評を書く5つのポイント>
1)その本を手にしたことのない人でもわかるように書く。

2)作者の他の作品との比較や、刊行された時代背景(災害や社会的な出来事など)について考えてみる。

3)その本の魅力的な点だけでなく、批判的な点も書いてよい。ただし、かならず客観的で論理的な理由を書く。好き嫌いという感情だけで書かない。

4)ポイントを絞って深く書く。

5)「本の概要→今回の書評で取り上げるポイント→そのポイントを取り上げ、評価する理由→まとめ」という流れがおすすめ。

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