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【新書が好き】自然をつかむ7話


1.前書き

「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

そこで、今月から一か月間、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

2.新書はこんな本です

新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

なお、広い意味でとらえると、

「新書判の本はすべて新書」

なのですが、一般的に、

「新書」

という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

「ノベルズ」

と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

そのため、ある分野について学びたいときに、

「ネット記事の次に読む」

くらいのポジションとして、うってつけな本です。

3.新書を活用するメリット

「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

ネット記事が、あるトピックや分野への

「扉」

だとすると、新書は、

「玄関ホール」

に当たります。

建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

つまり、そのトピックや分野では、

どんな内容を扱っているのか?

どんなことが課題になっているのか?

という基本知識を、大まかに把握することができます。

新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

新書は、前述の通り、

「学びの玄関ホール」

として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

という場合が殆どだと思われます。

そのため、新書は、あくまでも、

「入門的な学習材料」

の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

マンガでも構いません。

5.新書選びで大切なこと

読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

新書についても同様です。

これは重要なので、強調しておきます。

もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

①興味を持てること

②内容がわかること

6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

そんな感じになるのです。

昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

◆「クールヘッドとウォームハート」

マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

彼は、こう言っていたそうです。

「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

「生くる」執行草舟(著)

まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

「文学以上に人生に必要なものはない」

と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

8.【乱読No.25】「自然をつかむ7話」(岩波ジュニア新書)木村龍治(著)

[ 内容 ]
日常生活にある楽しみが、自然の奥深い姿を語りかけてくることがあります。
手品、豆腐、花火、映画、小説などを素材に、原子の世界から宇宙まで、過去から未来まで、あなたを思いもよらない広い世界に案内します。
自然科学者が感動した「自然の驚異」を語る7話。
科学が心を豊かにすることを実感するでしょう。

[ 目次 ]
第1話 奇術の楽しみ
第2話 豆腐が語る創世記
第3話 花火からビッグバン
第4話 「2001年宇宙の旅」の謎を解く
第5話 生態系の運命
第6話 アドリア海に落ちた涙
第7話 茶碗の湯に地球をみる

[ 発見(気づき) ]
自然とは何か、自然を如何に見つめるか、から考え直す必要がある。
まず、西欧では自然はNatureであるが、これは森羅万象(もの、現象、性質)を表す。
「Oxford Dictionaryによると、Nature: the phenomena of the physical world collectively, including plants, animals, and the landscape, as opposed to humans or human creations.」
となっており、自然とは人間と相対するもので、征服すべき対象としてとらえられている。
この自然観に基づいて、産業革命が起こり、今日の西欧的科学技術文明が華開いたのである。
ところが、その結果として環境破壊が起こり、公害や地球温暖化、資源の枯渇などの人類の存亡に関わる重大な問題が生じて来た。
ここにいたって西欧では新たな価値観が必要とされてきたのである。
一方、東洋では古代から西欧とは全く異なった「自然観」を持っていた。
もともと、「自然」いう言葉は悠然、毅然などといった言葉と同様、「状態」を表す言葉だった。
この言葉が西欧で言う「Nature」の訳語となったのだが、その意味は西欧とは大きく異なる。
すなわち、東洋では古来、人間は自然の一部であり、自然と人間とが一体となった自然観を持ってた。
自然は自己保存的であり、自律的、自己形成的であり、この自然観の基で経験的な技術や科学が進歩した。
ところが、この時点にいたって、日本では西欧の科学技術をそのまま取り入れたために、現在では西欧と同じ問題を生じてきている。
今、まさに世界で必要とされているのは、
「自然と人間との共生を基盤とした自然観」
であり、この自然観は古来、東洋において培われてきたものなのである。
このような「自然観」をもとに科学や文化を考えるに当たっては「成熟した社会」でなければ出来ないことであり、東洋の中でも今現在、取り組めるのは「日本」でしかないのかもしれない。

[ 教訓 ]
人間が手を入れて、人間のために作り上げた「自然」だ。
人間の用が済んだのなら、元に戻ればよいだけの話かもしれない。
実用性で作り上げたのだから、用が済んだ後も維持しなければならない理由はない。
自分たちの都合のいいように作り替える、生態系とはそういうものだ。
ミミズが土を改良した。
キツツキが木に穴を開けた。
これは自然はないではないのか。
そもそも、木が無ければ土などできなかった。
岩石だけが本来の自然だ。
こんな主張に耳を傾ける者などいないだろう?
人間が自然を変えるのはいけなくて、動物なら自然の営みだというのはなぜだろう。
渡り鳥がいなければ持ち込まれなかった植物のことは不問なのに、コンテナに着いてきた種子は非難される。
鳥たちの糞が石灰を作り、微生物の死骸が石油を作ったのに、人間が作り出す廃棄物は非難される。
自分たちの都合のいいように、自然を作り替える。
それはみな同じなのかも知れない。
人間は「自分たちの生活に都合のいいように」に加えて「自分たちの主張に都合のいいように」自然を作り替える。
そこまで進化したのかも知れない。
また、生態系とはまさしく「系」であるから、相互作用があってあたりまえ。
自然に作用しない人間の営みなどありえない。
人間が作り替えた「不自然な自然」も、人間がそこにいる限りは生態系としてなりたっている。
里山が日本の豊かな自然だ、だから残そう、いや原生林こそ本当の自然だ、だから戻そう、どちらの主張もどっちもどっちにしか聞こえない。
それは、「自分のとる行動は、自分の子どもの子ども、そのまた子どもの子どもにどんな形で影響を及ぼすだろうか」と絶えず問いかけ続けることである。
人間が他の生物と違う唯一の点は「時間軸で考えること」だと思う。
過去を考え、未来を考える。
考える主体たる”自分”が存在しないはずの時間域のことを考える。
人間はたえず、自然との関わり方を考え続けて生かなくてはならない。
間違っていることことがあるけれど、絶えず修正できるとこも人間ならではでないかと思う。
また、料理を楽しむには、まず食べてみること。
なのに今の理科教育は、料理を食べさせないで、材料の内容や下ごしらえの仕方、栄養の種類や量ばかりを教えているのではないか?
「料理」とは、私たちを包む自然のこと。
空を見上げれば太陽が照り、雲が流れ、星が輝く。
大地や海も、とどまるところを知らない。
なんと魅力にあふれていることか。
なのに学校では、物理、化学、生物、地学と分けられ、専門用語や方程式の詰め込みが理科嫌いを生んでいる。
自然の不思議さや奥深い楽しさを味わうことなく過ごしている人が、とても多いのではと感じる。
「なぜ」という疑問の種から「なるほど」という答えの花が咲き、その中の新しい種からまた別の花が咲く。
そんなリズムで物事を捉えていきたい。
島々を訪ね、土地の生物や住民の生活にも触れた「ビーグル号航海記」のダーウィンや、化学物質による環境汚染を警告した「沈黙の春」のレイチェル・カーソンのような科学者が、日本には少ないと感じる。
「沈黙の春」(新潮文庫)レイチェル カーソン(著)青樹簗一(訳)

「沈黙の春」(ラダーシリーズ LEVEL 5)レイチェル・カーソン(原著)

インターネットで、多量の知識が得られる時代だが、ネットの情報は断片的。
ものごとを総合的に考えるには本が一番であるとやはり、そう思う。
一冊の本を一か月、あるいは一年かけてじっくりと読み込むのもいいと思う。
科学は「役に立つ」ばかりでなく、「自然を楽しむ道具」でもある。
詩人は言葉で自然の素晴らしさを表現するが、文学的才能のない我々でも、自然の驚異に触れられるのである。
科学を使えば。

[ 一言 ]
「人類にとって地球は必要だが、地球にとって人類は必要ではない」、「人類さえいなければ地球環境は良好だ」という声を聞いたことがある。
人類さえいなかったら環境破壊はなかったのにということだろうか?
人類は地球環境を破壊してきた。
だから人類は滅んでも仕方がないということだろうか?
確かに20世紀に人類は環境を破壊してきた。
そして今も続けている。
でもこの考え方からは明るい未来は見えてこない。
未来の子供たちにとって、とても不親切な考え方です。
結局この考え方は、生まれてくるな。
生まれてしまったら、死ねということに行き着いてしまう。
夢も希望もない。
このような考えはしたくない。
もう、環境はもどらないと嘆いたり、諦めたりする人もいる。
それは、未来の子供たちに対し無責任で不親切だと思う。
また、過去に人類の幸福と発展を願って努力してきた先輩たちに対しても失礼である。
必ず私たちにやるべきことがあるはず。
自然と人のことを素直な目で見て、考え、語っていきたいと思う。
その中で、暮らしを振り返り、生き方を考え、できる事を探り、あるべき自然と人とのあり方、理想に思いを巡らし、夢も希望も持てる環境論を考えていきたいと思う。

9.参考記事

<書評を書く5つのポイント>
1)その本を手にしたことのない人でもわかるように書く。

2)作者の他の作品との比較や、刊行された時代背景(災害や社会的な出来事など)について考えてみる。

3)その本の魅力的な点だけでなく、批判的な点も書いてよい。ただし、かならず客観的で論理的な理由を書く。好き嫌いという感情だけで書かない。

4)ポイントを絞って深く書く。

5)「本の概要→今回の書評で取り上げるポイント→そのポイントを取り上げ、評価する理由→まとめ」という流れがおすすめ。


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