【一行書】教外別伝不立文字
禅の教義を端的にあらわす禅語である「不立文字」は、文字を認め、文字の不完全さも認めた言葉であり、認めた上で、文字を超えていこうとする教えです。
この不立文字という言葉を考える上で非常に参考になる例が2つ。
不立文字を標榜する曹洞宗の開祖である道元禅師は、「正法眼蔵」(87巻(旧草75巻、新草12巻)を編成した)を文字で書き著しています。
また、1965年にノーベル物理学賞を受賞したアメリカの物理学者であるファインマンは、父親があえて名前を教えなかったため、いろいろな物の名前を知らず、幼少期、頭が悪いと思われていました。
この両者は、極端に違えども、文字に囚われることなく、真実を見抜いていく、正しいものの考え方について、色んな視点を与えてくれます。
不立文字が説く実体験を重視せよを実行する場合、まず、よく観察し、観察に基づいて仮説を立ててみる。
次に、その仮説が正しいかを検証してみる。
その検証の仮定で、確かめきれないことは、先人の見識を(書物などに記載された文字を頼りにして)紐解いて確認するという体験を深めていくべきだと教えてくれます。
私たちが、特に、注意すべき点は、知ることには、落とし穴があるということです。
私たちは、往々にして、情報として知っただけで満足してしまいます。
あたかも、それを自身が体験したかの如くに、知った気になることがあります。
しかしそれは重大な誤りです。
知るとは、体験を通して、自分自身の体で知ることでなければ、身に付かないし、その際、考えると感じるのバランスをとり続けること。
知性と感性。
知識・知恵と実感。
このバランスが大切であるということ。
文字に(依って)立たない。
誰かがこのように書いているからと鵜呑みにしないで読んでみる。
本に書いてあるから。
昔の人・誰かが言っているから。
科学ではこうだから。
と思考停止しないこと。
よく自分で考えてみることの重要性を再認識させてくれます。
知識・知恵と実感は、どちらにしても、自己において、とても不確かな私たち自身の土台が基本となっています。
言うは易く行なうは難しで、完璧なバランスを取り続けられるわけがない。
だからこそ、明日をも知らない決断の連続である現実を生きる私たちへの助言として、この禅語は、適切なんじゃないかと思います。
よりよく生きたいのならば、やはり、自分で考え感じる必要がある。
だから、上手くいかない日があっても問題なくて、考えると感じるのバランスを取り続けながら、自分なりのリズムを奏でていく。
当然、解明できないこともたくさんあると思います。
でもね。
私が考えたのだから。
感じたのだから。
と言い訳をつけずに、いたいなって思います。
そこには、余りや余白も必要ですよね(^^)
人生、割り切れない事の方が、遥かに多いでしょ^^;
言葉では、完全に言い表すことはできず。
足りない部分は、どうしても余りがでてしまう。
例えば、機械を動かすときには、必ず、遊び部分が必要で、無ければぎこちない動きになって、それは、人間も一緒。
余りや余白といった遊び部分や潤滑油がなければ、バランスを取ろうと思っても、ぎこちなく動き、いずれ壊れてしまうから、気をつけてくださいね(^^)
だからこそ、むしろ、この余りや余白、割り切れない感情や解明されない部分が、とても大切なのではないかと思います。
だから、みなさんも、それを大切にしてあげてください。
もし、余裕が生まれたら、それを考えたり、感じたりしてみる感じの時間間隔で良いのかなって思います。
大切なことは、自分の知性、感性や想像力等を、決して過信せず。
また、考えすぎず、悩みすぎないで、解明できないことに出くわしたら。
時には、自然に身を任せる感じで、靭やかに、相手してあげてくださいね(^^)