見出し画像

【新書が好き】キリスト教を問いなおす


1.前書き

「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

そこで、2024年6月から100日間連続で、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

2.新書はこんな本です

新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

なお、広い意味でとらえると、

「新書判の本はすべて新書」

なのですが、一般的に、

「新書」

という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

「ノベルズ」

と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

そのため、ある分野について学びたいときに、

「ネット記事の次に読む」

くらいのポジションとして、うってつけな本です。

3.新書を活用するメリット

「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

ネット記事が、あるトピックや分野への

「扉」

だとすると、新書は、

「玄関ホール」

に当たります。

建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

つまり、そのトピックや分野では、

どんな内容を扱っているのか?

どんなことが課題になっているのか?

という基本知識を、大まかに把握することができます。

新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

新書は、前述の通り、

「学びの玄関ホール」

として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

という場合が殆どだと思われます。

そのため、新書は、あくまでも、

「入門的な学習材料」

の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

マンガでも構いません。

5.新書選びで大切なこと

読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

新書についても同様です。

これは重要なので、強調しておきます。

もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

①興味を持てること

②内容がわかること

6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

そんな感じになるのです。

昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

◆「クールヘッドとウォームハート」

マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

彼は、こう言っていたそうです。

「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

「生くる」執行草舟(著)

まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

「文学以上に人生に必要なものはない」

と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

8.【乱読No.31】「キリスト教を問いなおす」(ちくま新書)土井健司(著)

[ 内容 ]
平和を説くキリスト教が、なぜ十字軍など戦争を起こしてきたのか?
キリスト教信者には偽善者が多いのではないか?
信仰心に篤い人が、不幸な目に遭ったりするのはなぜか?
キリスト教に対し、このような疑念を抱く人は少なくない。
本書は、こうした問いに真正面から取り組み、キリスト教の本質に鋭く迫っていく。
キリスト教徒によるユダヤ人迫害などの事例から、神とは何かを真摯に問い、隣人愛とは何か、祈りとは何かを追究した本書は、これまでにないラディカルなキリスト教思想の入門書である。

[ 目次 ]
第1章 平和を説くキリスト教が、なぜ戦争を引き起こすのか(イエスは戦争を肯定していない 大義から外れた「十字軍」 ほか)
第2章 キリスト教の説く「愛」とは何か(「よきサマリア人」の譬え話 「永遠の命」を得るために ほか)
第3章 「神」の問題から神へ(神は本当にいるのか? キリスト教の創造神話は一つの世界観 ほか)
第4章 信仰、祈り、そして「あなた」との出逢い(祈ることは頼ることか? ボンヘッファーの言葉から ほか)

[ 発見(気づき) ]
平和を説くキリスト教がなぜ戦争を起こしてきたのか、信仰に篤い人でも不幸に見舞われるのはなぜか、神は本当にいるのか、隣人愛とはつまりどういうことなのか、などなど、クリスチャンではない者から見て「これってどうなん?」な疑問に答えてくれる本である。
大きなポイントとしては、キリスト教において「神」と「イエス・キリスト」とは、まったく別物であること、隣人愛の「隣人」の意味、それから、キリスト教における「神」の考え方の3点だろうか。
G.W.ブッシュの「十字軍」発言が象徴するように、キリスト教は、「平和の宗教」であるというイメージを持つ人は、少なくなってきているのではないだろうか。
そして、そこから発展して、一神教的な考えは、イケナイという、どこかで聞いたことのあるような愚論がまかり通ってしまっている。
われわれにとって、イスラームどころか、キリスト教でさえ、いまだに異文化の域なのである。
キリスト教徒は、口では、愛だの平和だの唱えながら、どうして、世界中で、戦争や殺伐を繰り返すの?
一神教徒って、なんで他宗教に、不寛容なの?
善い事をした人が不幸な目に遭って、悪い事をした人が、幸せに、一生を終えたりすることがあるけど、神なんてのがいるならば、なんで、この世は、こんな不条理な事で満ちているの?
非キリスト教徒で(いや、クリスチャンであっても)、この様な疑問を抱いた人は、多いと思われる。
また、神は、人間同士が、その立場(民族や仕事、家族関係など)から離れ、純粋に「わたし」と「あなた」として、向かい合うための「場」であると規定する。
従って、人間を、キリスト教徒と、非キリスト教徒に分け、片方を敵とする様な考えは、例えキリスト教会のものであっても、本来のイエス・キリストの教えから離れているのである。
本書で、最も印象的だったのは、ナチスに抵抗して処刑された神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉を引いた、次の個所だった。
ボンヘッファーは、この世界を「成人になった世界」と捉えている。
それは、子供の時代を脱した世界。
何より、それは、キリスト教が、罪責や死によって、人を怖れさせ信じさせる時代が終わったということを意味している。
そのことを表現するのに、ボンヘッファーは、
「宗教の時代」
が終わったという言い方もしている。
「宗教の時代」が終わり「神」が、人々に信じられなくなることによって、はじめて、真の神との新しい関係が築かれ得る。
ボンヘッファーは、そう考えていた。
四四年七月十六日付の手紙では、次のように書いている。
「成人した世界は神を喪失した世界である。
そしておそらくその故に、未成熟の世界よりもいっそう神の近くにいる」
と。
ここで、ボンヘッファーは、「成人した世界」で失った「神」は、真の神ではなく、そのような神を喪失したがゆえに、真の神との関係が、可能になると言っている。
この本が、非キリスト教徒から、どう受け取られるかは分からないが、むしろ、クリスチャンが、自分の信仰を「問いなお」し、再確認するのに、良いテキストとなり得るんではないだろうか?

[ 問題提起 ]
本書は、平和、隣人愛、神、祈りといった基本的なテーマについて、独自の視点から論じたキリスト教入門書である。
キリスト教信仰を持っていない者はもちろん、すでに、キリスト教徒である者も、自己の信仰を問い直す上で、よい導きになるものと思われる。
この本で問われているのは、
「平和を説くキリスト教が、なぜ戦争を引き起こすのか」(第一章)
「キリスト教の説く「愛」とは何か」(第二章)
「神は本当にいるのか」「一神教とは何か」「聖像画は偶像礼拝か?」(第三章)
「祈ることは頼ることか?」(第四章)
などである。
これらは、一般の人が思って当然の疑問であり、私もこういう疑問を持っていた。
たとえば、第一章の戦争の問いに対する筆者の答えは、
「戦争を行ったのは、ある時代のある社会と結びつき、社会をまとめる原理として力をもったキリスト教」
であり、
「それは社会の力であって、特定の宗教の力では」
ない、というものである。
むしろ、イエスの教えは、そのような社会の枠組みを乗り越えることを説いているのである。
ただし、私の考えでは、キリスト教を、イエスの教えだけに限定して理解すると、教会や礼拝、教義などの制度的なものは、一切いらないということになってしまうのではないかと思う。
もっとも、それを明言することは、牧師としての筆者にとっては、自己否定になってしまって、マズいのかもしれない。
その辺の折り合いのつけ方は、本書の中から、読み取ることはできなかった。
むしろ、筆者は、
「わたしたちが目の前の人間を率直に「あなた」と呼びかけることができ、「あなた」と呼びかけられることが可能であるなら、「キリスト教」でなくてもいいのです。
実際、「キリスト教」自身が、そのような応答を遮断してきた歴史があります。」
と、制度(あるいはイエスの思想)がいらないようなことを述べている部分もある。
こういう部分を見ると、筆者は、脱「(制度としての)キリスト教」の一歩手前にいるように見える(あるいは『深い河』の大津の一歩手前)。
あと、ひとつ私的に興味深かったのは、「神」に関する考察。
キリスト教における神は、人間にとって、都合のいい、すがるための存在ではない。
そのことに関して筆者は、
「神自身が見えない以上、唯一神への信仰は神を求めて万事を見渡すこと、万事に配慮することにほかなりません。
そういう努力が信仰なのです。」
とか、
「唯一なる神への信仰は、盲信ではなく、さまざまなものに配慮しながら努力するものなのです」
と述べている。
これは、
「無知のベール」
のような意味かと思うが、「神」という言葉を抜けば、批判的思考そのものではないかと思った。
キリスト教の本質が、具体的な「わたしとあなた」という個別的な(たとえば目の前に倒れている人を助けるといった)関係に基づいていて、そこから、
「社会をまとめるために引かれた境界線を乗り越えること」
にあるという主張は、説得力を持っている。
理論ではなく「現場」のキリスト教という感じである。
世の中のすべての分野が、現場をおろそかにする趨勢にある中で、宗教が、現場を取り戻すのは、意味のあることである。
とりわけ、宗教の場合は、容易に一般化され、原理主義へとなだれ込む危険に満ちているから、意味があると思う。
「わたし-あなた」関係というのは、ユダヤ教の思想家マルティン・ブーバーの思想に、ヒントを得たものでるが、こういう展開も、可能だったのかと唸らされた。
ただ、ブーバーはともかく、キリスト教の我-汝の関係は、神のほうが「われ」で、人間は、「神の他者としての汝」だと理解した方がいいのではないかと、ウォーコップの影響を受けた人は、考えてしまうかもしれない。
それにしても、今日では、アメリカにしても、ヨーロッパにしても、キリスト教国家を自認する国ほど、キリストから離れてしまっていて、いったいこれからどうするんだろうと、他人事ながら、気になる。
そして、わが国のように、キリスト教嫌いの「無宗教」という独特の信仰空間に成り立っている国の行く末は、当然ながら、もっと気になる。

[ 教訓 ]
キリスト教徒も、そうでない人も、キリスト教は、イエス・キリストの教えだと考えている。
それは、この著者も同じだ。
だから、
「キリスト教はなぜ戦争をするのか?」
という質問に対して、
「イエスは戦争を望んでいない」
とか、
「キリスト教徒だから戦争をしたのか、それとも戦争をしたのがキリスト教徒だったのか?」
という回答に着地することに、何の問題点もないと考えるのだろう。
しかし、これはどうなんだろうか?
キリスト教が、ローマ帝国に公認されたのは、コンスタンティヌス帝が十字架を旗印にして、戦争に勝ったからだ。
要するに、キリスト教は、
「戦争に勝たせてくれる神様」
として、ローマ帝国で受け入れられた。
体制宗教としてのキリスト教と戦争は、そもそも、最初から固く結びついている。
そうしたことをなかったことにして、聖書にあるイエスの言葉まで戻られても、少し白けてしまうのだ。
キリスト教と戦争については、もっと踏み込んだ議論が必要なんじゃないだろうか。
但し、隣人愛についての章は、読み応えがある。
一神教についての解説も面白い。
全体的に得るものも多い本だとは思う。
でもこれで「キリスト教」がわかるかというと、それはどうなのか。
三位一体や、イエスの贖罪死といった、伝統的なキリスト教が持つ基本的な教義(ドグマ)にまったく触れないまま、「キリスト教を問いなおす」と言われても、ちょっと興ざめする。
結局は、キリスト教外部からのキリスト教批判に、言葉を取り繕いながら、弁解しているだけという印象が残る本だった。
本書は、著書が学生から募集した「キリスト教の悪口、批判」を参考に書かれている。
批判の中に、キリスト教は、十字軍をはじめ、酷いことをたくさん行なってきた、というものがあった。
これに対して、著者は、
「キリスト教とキリスト教徒は異なる」
と答えている。
そして、具体的に、聖書は、殺人や戦争を否定していることを示している。
確かに、もともとの教えと、信者と称する者の行動には、ズレがあるのであろう。
オウム真理教のように、教祖自身が反社会的な破壊行為を説くのとは違いう。
アメリカにおけるキリスト教原理主義者たちが、過激な発言をしていることなどから、キリスト教自体が、危険な思想を含んでいるかのように思われがちである。
そうではないということを、聖書を根拠に説く著書の主張は、一般の人にとっては貴重だと思う。

[ 結論 ]
簡単に、キリスト教を概観しておく。
1.キリスト教は理不尽を前提にしている
キリスト教は、イエスが十字架にかけられることからも分かるように、この世を理不尽なものと捉えている。
そして著者によれば、そのような中でも、世界は美しい、愛は希望であると説く。
この世は理不尽だが、それでも世界は美しい、という言葉を読んで、瀬戸内寂聴著「痛快!寂聴仏教塾」によれば、
「痛快!寂聴仏教塾」(痛快!シリーズ)瀬戸内寂聴(著)


仏教も、この世は理不尽だが、それでも美しい、と説いていた。
ついでに言えば、フランクル「夜と霧」にも同様の世界観が描かれている。
「夜と霧 新版」ヴィクトール・E・フランクル(著)池田香代子(訳)


宗教は根本的には、どれも似たようなものなのかもしれない。
2.一神教と拝一神教
著者は、旧約聖書に描かれる神は、次のように変化したと述べている。
部族固有の神が多数おり、自分の部族の神だけを信じろという、拝一神教が最初にある。
これは、「嫉妬深い神」である。
しかし、神が部族のみのためでなく、人間一般のためのものであると拡大すると、神は、唯一ということになる。
これが、一神教である。
そこには、他に神はいない。
そして、神は、全人類の神である。
キリスト教を、ちょっとかじった程度だと、旧約聖書に描かれている神は、すべて「嫉妬深い神」というように思い込みがちですが、そう単純ではない。
旧約聖書には、排他的な拝一神教の部分と、博愛的な一神教的な部分があるということのようである。
ちなみに、イスラームの預言者ムハンマドも、部族ごとに、別れて争っていた拝一神教の境界線を超えることを重要と考え、自らの主張の正当性の根拠を、既存の唯一神信仰、つまり、ユダヤ教、キリスト教の伝統の中に求めたのだそうである。
3.「わたし-あなた」の関係
本書では、この「わたし-あなた」の関係が、一つの重要なキーワードになっている。
「わたし-あなた」というのは、一切の肩書きを外した、裸の個と個(あるいは、一人の人間と人間)の関係のことである。
著者は、「よきサマリア人」の譬えから、この関係の重要性を説いている。
「よきサマリア人」の譬えというのは、ルカの福音書10章30節から37節にある、イエスの譬え話を指す。
強盗により、半殺しにあったユダヤ人が、道で倒れていた。
祭司やレビ人が通りかかったのであるが、何もせずに、通り過ぎてしまう。
死体に触れれば、汚れの戒律に違反するのであるが。
ところが、次に、そこを通りかかったサマリア人は、彼を宿屋に連れて行き介抱した。
このサマリア人こそが、半殺しにあった人の隣人となった、とイエスは説く。
サマリア人というのは、ユダヤ人と敵対していた人々であった。
「よきサマリア人」の譬えで、イエスが説いたのは、一人の人間として、接することの大切さである(隣人愛)。
そこでは、肩書きも、社会的境界線も、関係ない。
境界線を乗り越えることこそが、重要なのである。
ところが、こういう関係は、なかなか長続きしない、非日常的なものである。
非日常的だからこそ、この関係性に、神は、存在する。
こう著者は、主張している。
もう一つ、「あなた」は、神の場合がある。
「あなた」に語りかけるときも、「わたし」は、自分を率直に、隠すことなく開示する。
そして、その時、「わたし」の主体性が喚起され、非日常の世界が開かれる、と著者は、述べている。
サマリア人の話が隣人愛を説いており、それは、進んで隣人になれという意味だという話は、教会の説教で聞いていて、知っている人もいると思う。
しかし、これを、「わたし-あなた」関係、境界を越える行為、と位置づけ、さらには、神との関係にも関連させている点が、新鮮であった。
さらに、感想を付け加えると「わたし-あなた」関係には、「自分の弱さを認めること」も含まれているという気がした。

[ コメント ]
以前、モームの短編「雨」を読んだとき、宣教師デイヴィッドソンは、自分の弱さを認めることができなかったと記憶している。
「雨・赤毛 モーム短篇集(I)」(新潮文庫)サマセット・モーム(著)中野好夫(訳)


それは、彼が、自分は宣教師であるという立場を脱ぎ捨てて、考えることができなかった、つまり、率直に弱い「わたし」を、開示できなかったからではないだろうか。
人間は、誰しも弱く、不完全である。
神の存在に意味があるとすれば、一つは、神が人間の弱さ、不完全さを示してくれることだと思う。
そして、人間は、自分の弱さを知れば、他人にも、寛容になれると思う。
「雨」のデイヴィッドソンが、自分の弱さを認めることができず、そのため、ミス・トムソンに対しても、寛容になれなかったのは、彼が、「わたし-あなた」の関係を、ミス・トムソンとの間でも、神との間でも、結べなかったからではないだろうか。
「わたし-あなた」の関係(境界線を超える関係)というのは、重要な概念だと感じた。

9.参考記事

<書評を書く5つのポイント>
1)その本を手にしたことのない人でもわかるように書く。

2)作者の他の作品との比較や、刊行された時代背景(災害や社会的な出来事など)について考えてみる。

3)その本の魅力的な点だけでなく、批判的な点も書いてよい。ただし、かならず客観的で論理的な理由を書く。好き嫌いという感情だけで書かない。

4)ポイントを絞って深く書く。

5)「本の概要→今回の書評で取り上げるポイント→そのポイントを取り上げ、評価する理由→まとめ」という流れがおすすめ。

10.関連記事

【新書が好き】行動分析学入門
https://note.com/bax36410/n/nf4d6f6ef7fec

【新書が好き】霊はあるか
https://note.com/bax36410/n/nb397602c06a8

【新書が好き】日本の「ミドルパワー」外交
https://note.com/bax36410/n/nff46698ea558

【新書が好き】狂気と犯罪
https://note.com/bax36410/n/nc00c2d42a6dc

【新書が好き】歴史認識を乗り越える
https://note.com/bax36410/n/n4e4225974b41

【新書が好き】父と娘の法入門
https://note.com/bax36410/n/nf261a09672ed

【新書が好き】アメリカ保守革命
https://note.com/bax36410/n/n968de29b9590

【新書が好き】自由とは何か
https://note.com/bax36410/n/nda37804ca159

【新書が好き】いきなりはじめる浄土真宗
https://note.com/bax36410/n/n1759ee81cac8

【新書が好き】はじめたばかりの浄土真宗
https://note.com/bax36410/n/n1c0fa6a39d79

【新書が好き】ナショナリズムの練習問題
https://note.com/bax36410/n/n4a636e80a2f9

【新書が好き】戦後和解
https://note.com/bax36410/n/nac7b70ea3bb5

【新書が好き】ブッダとそのダンマ
https://note.com/bax36410/n/ndc56a78b8a45

【新書が好き】動物化する世界の中で
https://note.com/bax36410/n/n02a8ab9d2f0a

【新書が好き】さまよう死生観
https://note.com/bax36410/n/ned739bc09ff8

【新書が好き】国際政治とは何か
https://note.com/bax36410/n/nca1243570704

【新書が好き】エコノミストは信用できるか
https://note.com/bax36410/n/n53922ed9f3a0

【新書が好き】正義を疑え!
https://note.com/bax36410/n/n44d4877b74aa

【新書が好き】ナショナリズム
https://note.com/bax36410/n/nfcacc73e1796

【新書が好き】劇場政治を超えて
https://note.com/bax36410/n/ned0b825e09ba

【新書が好き】テロ-現代暴力論
https://note.com/bax36410/n/nff7d0ca0f520

【新書が好き】アメリカ外交とは何か
https://note.com/bax36410/n/n462e59d83c69

【新書が好き】日露戦争
https://note.com/bax36410/n/n64b42ab78351

【新書が好き】不幸論
https://note.com/bax36410/n/nf3a4463523b2

【新書が好き】自然をつかむ7話
https://note.com/bax36410/n/n6999febc678a

【新書が好き】夢の科学
https://note.com/bax36410/n/n1a673641b34e

【新書が好き】戦争報道
https://note.com/bax36410/n/n20af0a5cc031

【新書が好き】少年犯罪実名報道
https://note.com/bax36410/n/nae1b010fa57e

【新書が好き】『葉隠』の武士道
https://note.com/bax36410/n/nd41c0936c4e1

【新書が好き】現代ロシアを読み解く
https://note.com/bax36410/n/n37490828476f

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集