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【LAWドキュメント72時間】世界を見つめる目の「解像度」

たらればさん曰く、

「(誰かにとっての)何気ない朝」

「(自分にとっての)特別なワンシーン」

に切り取って描写するためには、以下に示す3種類の力が、必要なんだとか。

①「知る力」

 絶対的な知識量 ⇒ どれだけ好奇心を持って、世界を見ているか。

②「紐づけて使う力」

情報に関連性を持たせどこで使うか ⇒ 破壊と創造

③「祝福する力」

この世界を見る視線 ⇒ 世阿弥の言う「珍しき」をどれだけ自身が日常に感じられるか。


世阿弥の残した言葉に、

「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」

とあります。

「「珍しき」も私たちが日常で使う「珍しい」とは違います。

「珍しき」というのは「愛ず(めず)」、すなわち愛らしいことであり、そして「目連らし」、目が自然にそちらに連れられていくことです。

いわゆる珍しいものや珍しいことは、二回目には当たり前になり、珍しくなくなります。

そのような珍しさは「花」ではない。

世阿弥のいう「珍しき」とは、まったくふつうのことの中に「あはれ(ああ、という感嘆)」を感じさせることです。」(安田登著「能 650年続いた仕掛けとは」より)


【世界を見つめる目の「解像度」】

「世界は分けてもわからない」(講談社現代新書)福岡伸一(著)

[ 内容 ]
顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?
科学者たちはなぜ見誤るのか?
世界最小の島・ランゲルハンス島から、ヴェネツィアの水路、そして、ニューヨーク州イサカへ―「治すすべのない病」をたどる。

[ 目次 ]
プロローグ パドヴァ、二〇〇二年六月
ランゲルハンス島、一八六九年二月
ヴェネツィア、二〇〇二年六月
相模原、二〇〇八年六月
ES細胞とガン細胞
トランス・プランテーション
細胞のなかの墓場
脳のなかの古い水路
ニューヨーク州イサカ、一九八〇年一月
細胞の指紋を求めて
スペクターの神業
天空の城に建築学のルールはいらない
治すすべのない病
エピローグ かすみゆく星座

[ 問題提起 ]
生命は、ミクロな「部品」の集合体なのか?

私たちが無意識に陥る思考の罠に切り込み、生命の本質をとらえ直すスリリングな科学ミステリー。

[ 結論 ]
全体とは部分の足し算ではない。

たとえ解像度を上げて

「部分」

を細かく細かく分析して行ったところで

「全体」

には到達できない。

これはずっと一貫した著者の主張だし、現代科学の限界に対してその限界に自覚的になろうという戒めでもある。

『生物と無生物のあいだ』では、

「動的均衡」という概念が提唱されていたけど、今回は「空目(そらめ)」と「時間」、「がん細胞」が加わっている。

空目(そらめ)というのは空耳をもじった概念。

ある音(の連なり)がまったく違う音(言葉)に聞こえてしまうことを空耳というけど、聴覚の空耳に相当する視覚の空目もあるんだ、という。

いわゆる目の錯覚もそうだし、意味のないランダムなパターンに人の顔を見いだしてしまうことや、数学的に滑らかなグラデーションにジャンプを見いだす一方でランダムなノイズの混ざったパターンを滑らかと感じることなどを説明してくれる。

かなり洗いモザイクでも絵として認識できる例など挙げつつ、こう指摘する。

ヒトの眼が切り取った

「部分」

は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した

「関係」

の多くは妄想でしかない。

私たちは見ようと思うものしか見ることができない。

そして見たと思っていることも、ある意味ではすべて空目なのである。(P163)

時間については、

「動的均衡」

とも繋がっていて、顕微鏡などでみた

「事実」

は時間軸にそった変化を切り捨てたある時点の静的状態でしかないこと。

つまり

「事実の一側面」

でしかないことへの警鐘。

面白いことに、人類が持っているテクノロジーの中で映像を再生できるようになったのは本当にごくごく最近のこと。

研究の中で、ミクロの世界で、それが使われるようになったのも本当にごくごく最近のこと。

ある一時点の

「状態がどうか」

(だけ)ではなくて

「ある状態から別の状態への変化がどうか」

に意味があるという主張。

がん細胞の話は、福岡さん得意の比喩的な表現方法がかえって

「本当かな」

と眉唾モノに聞こえてしまって

「面白いけど信じがたい」。

曰く、

「がん細胞とES細胞は紙一重」。

正常な細胞は分裂し増殖していく時に

「周りの空気を読んで」

自分がどんな細胞になるのかを知るし一定のペース以上で分裂しないようになる。

がん細胞とES細胞は空気を読まないという点で共通しているんだとか。

細胞を足し算したものは果たして生命なのだろうか。

細胞を分解していくと分子原子になっちゃうし、宇宙の大きさから見た人間一人は細胞の一つに見えなくもない。

そんな発想で作製された映画も本書には紹介されてます。

[ コメント ]
YouTubeに、その映画"Powers of Ten"があるのでリンクしておきます。


「世界が変わる現代物理学」(ちくま新書)竹内薫(著)

[ 内容 ]
相対性理論と量子力学の大発見を端緒とする現代物理学の展開は、にわかには信じ難い事実を明らかにした。
われわれが世界を考えるときの素朴な前提―確固たる手ざわりをもった無数の物質により、この世界は形づくられている―が、きわめて不確かな「モノの見方」であるというのだ!
では、最前線の物理学理論から導かれる、森羅万象の「リアル」なあり様とは、いかなるものなのか?
その驚くべき世界像を、数式を用いることなく平明な語り口で説き明かす。

[ 目次 ]
第1章 思索としての物理学(思索としての物理学 ニュートンの世界観はモノ的だった ほか)
第2章 SF的世界観への前哨(科学の歴史は実在論と実証論のせめぎ合いだった 天才たちと秀才たちの系譜 ほか)
第3章 ピカソと相対性理論(ピカソと相対性理論 時空の変換方程式 ほか)
第4章 量子は踊る(あえて実在論的に量子論を理解してみる(ボーム流の解釈) (あらためて)量子とは何だろう ほか)
『事象の地平線』
第5章 世界はループからできている(これまでのまとめ 時間と空間というモノ ほか)

[ 問題提起 ]
著者は

「思想としての物理学」

を語るため、SF化(虚構と現実の境界のゆらぎ)という概念を提示する。

世界はあたかも複素数のようにリアルな部分(モノ)とイマジナリーな部分(コト)から出来ている。

相対論と量子論はそうした世界の二重構造をかつての神話の解像度をはるかに凌駕する精度をもって厳密に記述しはじめた。

最近のループ量子重力論にいたって時空という究極のモノさえもコト化され、さらには現実(モノ)と虚構(コト)の境界がゆらぎ、純粋にコト的な世界としての宇宙が立ち現れようとしている(物理学から「事理学」へ)。

《宇宙はSF的な構造をもっており、それを記述する現代物理学もSF的な構造を反映しており、宇宙を写し取って進化してきて、物理学を紡ぎ出している人間の脳もまた、SF的な構造になっています。》

思想(物理学)が変われば世界は変わる。

そして、世界が変われば「自分」も変わる。

著者が

「宇宙の叙事詩」

とも形容すべき数式を使わず現代物理学の世界観を解説した本書に、

「少なからぬ数の読者の反論と否定的な評価を予測しながら」

未完の思想小説の一部を掲載したのは、本書を思想としてではなく知識(情報)として読み流し

「こういうことはみんな知っている」

と感想を述べるだろう読者に対して、あるいは

「命がけの思想」

という言葉に冷笑をあびせるだろう

「忙しい情報化時代に生きる現代人」

に対して苛立っているからだ。

[ 結論 ]
物理学の「思想」的な変化に焦点を当て、素人にもわかるように――というより、素人が分かった気になれるレベルに落として――理論物理学の歴史の流れを概説。

著者は物理学が特定の科学思想に支えられていることを重視し、ニュートン力学→相対性理論→量子論→ループ量子重力理論という物理学の発展のなかで、

「モノからコトへ」

という思想的変化が一貫して続いてきているのだと指摘する。

著者のいう

「モノ」

「コト」

の定義は次の通り。

■「モノ」=意味のネットワークの一つの「交叉点」(=結節点、ノード)だけに着目したときに見える世界。

■「コト」=意味のネットワークの全体的な「つながり」こそが本質であることに気づいたときに見える世界。

まあ~これだけ言われてもピンと来る人は少ないとは思う。

要するに、世界が人間の意識と無関係に存在するのではなく、人間がそれを意味的に了解してはじめて世界が存在するという(たとえばハイデッガー的な)認識論が、物理学理論の発展過程からも裏付けられようとしている・・・という話だと私は思う。

時間や空間すらも客観的に存在するもの

(モノ)

ではなく、それらは物理学的な

「意味」

の連関から導かれる

概念(コト)

にすぎない。

意味とは人間の言語能力に由来するものであり、したがって、構造化された人間の脳に決定的に依存する。

だからある意味では人間の認識には限界があるのであって、物理学はその限界に迫ってきたというわけだ。

この限界付近では、本質的に重要なのは「意味のネットワークの全体的なつながり」だということ。

[ コメント ]
一般人向けの軟派な本なので、興味がある方は、暇つぶし程度に読むのがちょうどいいと思う。

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