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【新書が好き】戦争報道


1.前書き

「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

そこで、2024年6月から100日間連続で、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

2.新書はこんな本です

新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

なお、広い意味でとらえると、

「新書判の本はすべて新書」

なのですが、一般的に、

「新書」

という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

「ノベルズ」

と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

そのため、ある分野について学びたいときに、

「ネット記事の次に読む」

くらいのポジションとして、うってつけな本です。

3.新書を活用するメリット

「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

ネット記事が、あるトピックや分野への

「扉」

だとすると、新書は、

「玄関ホール」

に当たります。

建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

つまり、そのトピックや分野では、

どんな内容を扱っているのか?

どんなことが課題になっているのか?

という基本知識を、大まかに把握することができます。

新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

新書は、前述の通り、

「学びの玄関ホール」

として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

という場合が殆どだと思われます。

そのため、新書は、あくまでも、

「入門的な学習材料」

の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

マンガでも構いません。

5.新書選びで大切なこと

読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

新書についても同様です。

これは重要なので、強調しておきます。

もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

①興味を持てること

②内容がわかること

6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

そんな感じになるのです。

昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

◆「クールヘッドとウォームハート」

マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

彼は、こう言っていたそうです。

「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

「生くる」執行草舟(著)

まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

「文学以上に人生に必要なものはない」

と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

8.【乱読No.27】「戦争報道」(ちくま新書)武田徹(著)

[ 内容 ]
ジャーナリズムは、戦場の悲惨を世に訴える一方で、ときに率先して好戦論を喚起し、戦火に油を注ぐような役割も担ってきた。
このような奇妙に歪んだ構図が生まれるのはなぜか?
本書は、第二次世界大戦からベトナム戦争、そして9・11にいたる戦争報道のあゆみを、文学・映画からインターネットにまで射程を広げて丹念にたどることで、ジャーナリズムと戦争との危うい関係を浮き彫りにし、根底より問いなおす。

[ 目次 ]
第1章 第二次世界大戦中の戦争報道(同盟通信社―ナショナル・ニュース・エージェンシーを目指して;BBC時代のジョージ・オーウェル―『紅茶を受け皿で』の背景)
第2章 ベトナム戦争の報道(ジャーナリズムと文学―ハルバースタム・岡村昭彦・開高健;ジャーナリズムと映画―『地獄の黙示録』という戦争報道)
第3章 湾岸危機以後の戦争報道(「報道と宣伝」再論―PR会社の台頭;戦争報道とインターネット―信頼の失墜;ビデオ・ジャーナリストの挑戦―今ある戦争報道の先へ)

[ 発見(気づき) ]
ジャーナリズムは今まで作為的に、あるいは無作為的に戦争に加担してきた。
プロパガンダを運ぶ役割を担ってきたジャーナリズムはある特定の価値観を増幅する役割を果たし、むしろ異文化間の衝突を激しくすること(思想戦とはそういうものだ)に貢献してしまっていた。
それに対して(PR会社のばらまく美辞麗句ではなく本当の意味で)多価値型社会を繋ごうとするジャーナリズムは、文化の違いを認めながら共生の可能性を探る方向で機能するのだろう。
ジャーナリズムは本来そうあるべきだったのではないか。
インターネットの時代に、ジャーナリズムが本来の姿に立ち還る可能性の扉が、わずかに開かれようとしているのではないか。
「思想戦」とは、第二次世界大戦中の同盟通信社の話で、同社のパンフレットには「武力戦に種々の兵器あるごとく、ニュースを砲弾とする思想戦にも武器がある。
新聞、ラジオ、映画これが三大武器である。」と書かれているのである。
つまりこの会社は、客観的で正確公平な報道ではなく、国策支持を得るために情報操作をする機関として機能していた。
それが作為的に戦争に加担してきたケースである。
こんなことは昔の話、と思うかもしれないが、しかしそうではなく「無作為的に戦争に加担」しているケースが少なくないのである。
それは、「湾岸危機以後の戦争報道」に顕著なのだが、情報操作を専門的に行う企業(PR会社)が、報道メディアが飛びつきやすいように魅力的に情報を構成し(パッケージ)、そうした情報パッケージを洪水のように提供することで、TVメディアは自前で取材や検討をすることなくそれを垂れ流す。
それは「うそ」ではないが、作為的に選択された情報を無思慮的に(不公正に)報道することであり、結果的に無作為的にどちらかの主義主張の宣伝に加担していることになる。
そうではないあり方としては、インターネットを使い、マスメディアが書かない/書けない情報を拾い上げて分析し本質を見出していくという方向性と、ビデオ・ジャーナリストのような小さなジャーナリズムによって、政府や軍やPR会社が作り上げた情報管制網を突破する方向性である。
後者の場合、情報発信はインターネットが有力候補であり、インターネットの時代に、ジャーナリズムが本来の姿に立ち還る可能性なのかもしれない。

[ 問題提起 ]
開高健は戦争中のベトナムを見て『ベトナム戦記』を書いたが、見ることだけに徹したそのルポは、吉本隆明や三島由紀夫に批判された。
ところが長い時間をへてみると、同時代のジャーナリストとして評価の高いハルバースタムや岡村昭彦には見えていなかったものが、作家である開高健には見えていたことがわかる。
イデオロギーや概念からできるだけ離れて、つまり、「戦争」を見るのではなくて「戦争の時間を生きる人間」を見る姿勢。
これは別に文学者だけの特技ではなくて、「報道」がいかに読み手・(映像の)受け手に深く届くかを考えるうえで有用だ。
新聞やテレビは国際問題を詳しく報道する。
しかしその大半は各国政府と国連との間のかけひきの話であって、それによって運命を大きく左右される普通の人々のことはほとんど話題にならない。
結局のところ新聞は国際問題の専門家を自称する人たちの業界紙でしかない。
戦争が国民にとってどういう現実か、新聞やテレビからはなかなかわからない。
また、クリミア戦争が従軍記者の始まりと言われている。
1851年に経済状態を伝えるためにロイターが開設され、同じころ、後のAP通信になる母体も生まれた。
要するに、国際ニュースが近代的な形をもって登場してきたのだ。
タイムスのW・H・ラッセルが報道した英軍がロシア軍に壊滅させられた記事は有名である。
この後、国家間戦争、報道戦争、内戦も含んで戦争が相次ぐ。
欧米のメディアが戦場に勢ぞろいして大々的に報道合戦をしたのが日露戦争(1904~1905)だ。
当時、イギリスでは、ロンドン・タイムスを始めとして怖いくらい日本ひいきの報道がされた。
これには、当時の大英帝国がロシアのアジアへの南下を阻止するという戦略的な国家目標が、背景にあった。
国家の目標に沿うような形で、イギリスのメディアも戦況を報じたわけである。
有名なバルチック艦隊を日本は撃破するわけだが、あの時点で日本軍は、ほとんど補給を使い果たしてしまい、新しい戦闘に向かうゆとりはなかった。
しかしイギリスメディアを中心に、日本に対して肯定的な報道が世界を駆け巡り、それに背中を押されるような形で、日露が講和会議に進んでいった。
国家の利益、イギリスにとっての対ロシアの国家的戦略の利益に沿った戦争報道が、イギリス・メディアでは行われたことになる。
第一次世界大戦では、報道の乱れは凄まじかった。
米・ジョンソン上院議員が戦後「戦争の最初の犠牲者は真実だ」と述べたほどでっちあげ報道が多かったという。
大メディアの典型例として挙げられるのが、イギリス、フランス、ベルギーのメディアである。
ドイツ軍が暴虐な限りを尽くしているというドイツ批判一色の報道した。
例えば、ドイツ軍が赤ん坊の手をたたき切ったとか、それを食べたとか、根の葉もない虚報を流していた。
どれも曖昧で情報に信憑性がない。
さらに、虚報が虚報を生んで悪循環になってしまった。
そうしたものが平気でまかり通ったことは今では信じられないことだが、メディアにとっては大変痛恨な時代だった。
ベトナム戦争では、記者がほとんど自由に戦場にいけた。
現地まで一緒にヘリコプターに乗って連れて行ってもらったり、帰りも飛び乗ったりと本当にフリープレスを実感できた。
大メディアだけでなく、登録さえすればフリーランスの人々も自由にアクセスできるようにアメリカはしていた。
しかし、汚い戦場の場面が流されたことによって反戦運動が盛り上がり、仕舞いにアメリカは撤退に追い込まれていく。
アメリカの軍は「メディアのせいで負けた」とよく言っていたが、フリープレスを理想に掲げるアメリカは、ある意味それが理由で自ら敗退に追い込まれたとも言えるだろう。
ベトナム戦争によってアメリカ政府は、メディアを野放しにするのではなく、管理しなくてはいけないという方向に転じる。
戦争に勝つには、メディアを誘導していかなくてはならないからだ。
戦時、メディアの管理強化が始まる。
その最初がグレナダ進攻だった。
アメリカのメディアが駆けつけようとしたが、ちょうど手前で止められてしまう。
10数人くらいの記者だけが現地に入ることを許された。
その現地入りを許可した記者は、許可されなかった記者たちに現状、現地の様子等を教えてもいいことになった。
これが、戦争における「プール(代表)取材」の始まりである。
湾岸戦争では、兵士の血が流れる場面はほとんどメディアで流されなかった。
サウジの従軍の本部には1600人くらいの記者が殺到したが、同行を許可されたのは100人だけだった。
また、戦闘が大体終わり、ほとんど片付けられた残骸がちらほら残るぐらいの頃にしか入れてもらえなかったからだ。
そのため残酷な映像は撮れなかった。
この戦争の始まりは、ピーター・アーネットが残って報道した、夜空に大器砲艦の玉がダンダンっとあがっていったり、トマホークが夜空に明るい雲をあがらせる、まるで一枚の絵か映画を見るような映像だった。
ピンポイント爆撃ばかりが行われたわけではなく市民の被害も出たわけだが、それを裏付ける映像はほとんどなかった。
また、戦争と広告代理店がミックスされた証言が多かったのも事実である。
例えば、油まみれの水鳥の写真をイラクの環境テロのせいにしたり、在米イラク大使の娘に正体を隠し、偽りの証言をさせたりした。
戦争報道の限界とイラク戦争の報道が残した課題を今一度考えておく必要がある。
洪水のような大量の情報が戦場から直接お茶の間に届いた。
しかし、断片的情報の氾濫が、かえって戦争の本質を見えにくくしている。
個々の情報を吟味する間を与えない情報の氾濫の背後に垣間見える、アメリカ政府とメディアの意図を読み取る必要がある。
エスタブリッシュなメディアの確信犯への変貌は、世論の支持を失って、ベトナムから惨めな撤退を余儀なくされたアメリカ政府の敗因研究にルーツがあった。
人々の心理の動きを熟知した上で、情報操作を専門的に行う「企業」が、ベトナム戦争以後に勃興してきた。
報道メディアが飛びつきやすいような、魅力的に構成された情報を、洪水のように提供すれば、メディアは、目前の取材や検討を加えることがなくなり、この『魅力的な情報』から、離れられなくなる。
そのように、情報の洪水で、情報の質を操作するということの意味は、情報を氾濫させることによって、見せたくないものを見せなくさせるという、意識的な情報操作のメカニズムのことである。
メディア制御の方法を随分研究したアメリカ軍と政府は新しい報道管制システムを完成させており、それは報道メディアが取材、検討しなくても放映できるようにうまく構成された情報を「パッケージ」としてメディアに提供するもの。
創案者の名前をとってディーバー・システムと呼ばれている。
メディア制御といっても権力を使うのではなく、見たい視聴者と流したいメディアという自発性をうまく誘発することによって、政府の見せたい映像だけを流すという方法を成功させた、これこそがディーバーシステムである。
9・11直後に読んだ朝日新聞の天声人語(2001・9・13)「・・・よし、戦おうじゃないか。さあ、姿を見せろ、と言いたくもなる。」が強烈であった。
ホントにいるのかわからないアル・カーイダのために、イラクに派遣された自衛隊。
指揮を取った小泉首相も、アメリカ政府から見れば、一幕のスターであったにすぎず、明日の情報洪水に流されてゆく泡沫。
吟味する暇を与えない情報のパレード。
次は何が待っているのだろうか?

[ 教訓 ]
ジャーナリストの倫理観とは何か?
イラク戦争報道の過程では、アメリカのロサンゼルス・タイムズ紙が掲載した英軍兵士と避難民の写真が合成だったと発覚する事件も起きた。
あれ自体にはそんなに悪意は感じられない。
被写体になった人々の間の間隔が少々間延びしていたのでそこを少し縮めて写真としての動きを演出した。
しかし、そうした修正を一度でも許すと前例ができてしまう。
戦争報道だけではなく、写真報道、映像報道ともにデジタルになってからは、やろうと思えば何でもできてしまう。
かつて、カメラが普通のフィルムで撮影していたり、映画もフィルムを使っていた時代には、合成も相当な時間と技術をかけないとできない職人芸だったのだが、今はパソコンで簡単にできてしまう。
一つの例として紅葉の写真。
秋たけなわになると紅葉の写真が雑誌などに出るが、あれって年々赤くなっているように感じる。
これはあくまでも推測であるが、多分、色目の加工してると思う。
「きれいな紅葉が見たい」という人と「あり得べき、紅葉の理想の姿を見せてあげよう」というメディアとの間で一種の共犯関係があって、しかも今はデジタル処理ですので色調の変更も簡単に出来るため年々に赤くなってると思う。
同じように、インパクトある写真とか、人々が見たいと思っている写真を見せてあげたいという意識がジャーナリズム側には常にある。
それが物理的な条件でできない時がある。
「ちょっと距離が離れて間延びしている。それを詰めた方がインパクトがある」。
デジタルだと簡単にできてしまうものであるから、やってみたいんだろうか。
アナログの頃には技術的に修正が観単にはできなかったから、その是非の問題があまりリアルに論じられてこなかった。
けれども、デジタル技術が発達した現在、修正した方が「見たい」「見せたい」写真になるわけだが、そんな修正をやるべきか、やるべきじゃないか、といったことを改めて議論しなければならなくなった。
技術が変わって、出来るようになったからこそ、やるべきか、やらざるべきかの問題がリアルになったわけである。
しかし、こと報道の写真に限っては事実を報じることが大命題であり、そうした修正に問題があることはみんなわかっている。
ロサンゼルス・タイムズの写真も少し迫力を出すために手を加えたという、わかりやすい、悪意のない合成ではあったはずであるが、それを許してしまうと、報道写真の真実性が維持されなくなってしまう。
このままでは報道写真を誰も信じなくなってしまうのではないかという懸念がある。
だから、大騒ぎになったのだと思う。
こういった事件はこれからも起こるであろうし、報道の信頼性が失われていく方向に果たしてどれだけ歯止めがかかるのだろうかと思う。
何故なら、家庭のデジカメにおいても合成ができるわけだから。
修正も合成もねつ造もできてしまうように進歩してゆく技術に対抗して、さらに報道が信頼性を高めて訴えていくためには、ジャーナリズムは意識的に何かしないといけない。
それが何かと言えば、難しいのだが、受け手を裏切らないという実績を作っていくしかないのであろう。
では、情報映像をどのように読みとるべきかか?
人々が一番見たいのは、戦争がどういうふうに行われているかということ。
遠くからではわからないわけであるから、実際の戦場というのはどうなのか、バグダッド市内はどうなっているか、一般的にはそういうことを知りたい。
ジャーナリズムはそれに応えようとするわけであるが、たとえば本社から「もっと絵になる映像がほしい」と言われると、現場の記者は、たとえばアメリカ軍が誤爆した場所だけを映してしまうといった誇張が入ってくる可能性がある。
人々が戦争報道において「見たい」と望む映像は、平穏な市内ではなく、ひどく破壊された風景のはずです。
そうした受け手側の欲望みたいなものがメディアを通じ、さらに本社と現場のジャーナリストという関係の中で、バグダッド市内の平均的な光景ではなく、偏って誇張された映像を伝え、人々の戦争のイメージを偏った形で作ってしまう危険がある。
それは確かに「見たい」映像かもしれない。
しかし、「見たい」映像を見ることができたということで満足していてはいけない、というところまで認識することが本当のメディア・リテラシーである。
例えば、コソボ紛争。
テレビでよく流れていた破壊された市内の映像があった。
しかし、その撮影が出来る場所は実は市内のほんの数メートル幅の箇所に限られていた。そこで撮らないと戦争らしく撮れないということで、みんな中継するのに順番待ちして撮影したらしい。
その場所以外は実はあまり破壊されてないのであるが、そこだけ見ると「周りもひどく破壊されているんじゃないか」と思ってしまう。
その数メートルの箇所が破壊されているのは事実なのであるが、それはあくまでも断片的な事実である。
全体ではない。
断片的な事実があたかも全体であるかのように伝えられてしまう危険性がある。
映っていない範囲までは断片的な映像からはわからない、というのは基本の基本です。
そこに記録された事実がカメラレンズの画角の範囲内にあったことは確かであるが、それ以外の画角の外のところに何があったかはわからないということである。
しかし断片的な事実を誇張するような報道はやるべきではない、その点について記者の倫理観に期待するというのは実は難しい。
彼らは戦争取材を命じられて取材に行っているわけであるから「戦争」を撮影しようとする。
平和を映すのが目的ではないところがポイント。
で、「戦争」を感じさせる映像があればそこにカメラを向けるのがジャーナリストの職業倫理だと思う。
逆にいうと、彼らがまじめに働けば働くほど、そういった一面的な情報だけが伝わってくる。
それはある意味、一種の必然だと思う。

[ 結論 ]
われわれは、戦場ではなく銃後にいるのであるから、実際の戦場を見ることはできない。事実を知る方法は、ジャーナリストの目なり耳なりを通った情報しかないことから、報道は必ずや部分的に偏ったモノになるのだと、その限界だとわきまえた上で、改めてそれをどう見るのか考えるような姿勢が受け手の方に必要である。
では、事実報道の限界とは、どこにあるのか?
先ほど触れたように、日本のメディアはイラク戦争報道でイスラム側の情報も使う多元ソース化の工夫もしていた。
しかし、イスラムのメディアでも、バクダッドに留まったフリーの記者からの報告でも、断片的、かつ一元的な情報が流されるジャーナリズムの限界はもちろんあった。
結果として断片的な情報が大量に流されはしたが、それで戦争の全体像が見えたとは言えない。
その時、バグダッドにいたら見ていたもの、感じていたことを再現することはジャーナリズムを通じては実はできない。
断片的な情報は戦争の全体像を再現するには至らなかった。
「群盲象をなでる」ということわざがある。
目の悪い人がそれぞれ象を触ると、しっぽを触った人は、「象というのは細い紐のようである」、足を触った人は、「柱のようである」と、いろいろ意見を言いうのだが、象の全体像にいかない。
そういう状況だと思う。
事実報道のジャーナリズムをいくら積み重ねても全体像の再現はでない。
たとえ多元ソース化の努力しても所詮ジャーナリズムには限界がある、そう割り切った上で、事実報道ではない方法論を見つける必要がある。
そこで考えるのであるが、たとえば断片的な事実は報道されたが、戦争の全体像が見えなかった・・・。
そう言うと「そうですよね、アメリカはイラクが大量破壊兵器を所持していたことが戦争の原因だと言うけれど、そんなわけはなくて、アメリカは本当はイラクの石油が欲しいんですよね。戦争の本質を見誤ってはいかない」なんて反応がある。
確かにそうした深層の事情を知ろうとすることは大事ではあるが、ここで戦争の全体像が見えないという言葉で言いたかったのは、もっと抽象的な次元を含めてのこと。
アメリカがどうしたとか、フセインがどうだったかというような固有名詞のレベルではなく、より普遍的な「なぜひとは戦争をしてしまうのか」というようなことをもっと本格的に考えるべきではないかということである。
そういった考察は、ジャーナリズムには少々荷が重く、もう少し抽象的で思弁的な考察作業ができる領域でなされるべきだと思う。

[ コメント ]
例えば、文学や映画です。
「戦争とは何か」といった問いかけに応えてくれるような映画や文学の仕事が、断片的な事実を伝えるジャーナリズムの一方にあって、やっと戦争の全体がおぼろげながらわかってくるのではないか。
ベトナム戦争の時には開高健の小説『輝ける闇』やフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』を通して、われわれは、人間とはどういうものか、なぜ人間は戦争に頼るのか、なぜ戦争という方法を使ってしまったのかという考察ができたように思う。
たとえば『地獄の黙示録』では、戦争においては、何も考えずに人を殺せるのが優秀な兵士であると描かれている。
しかし、躊躇せず条件反射で人を殺せるのが理想の兵士であるならば、その兵士はもはや人間としての域を出てしまっている。
そう考えると戦争の合理性とは結局は狂気と同じではないか。
コッポラは戦争の合理性とは突き詰めると狂気に繋がるという矛盾した状態を『地獄の黙示録』で描き出している。
そういった戦争の本質的な部分がわからないと「戦争」を理解できたとは言えない。
そういった部分を捉えてこそ、戦争の全体像が見えてくるのではないだろうか?

9.参考記事

<書評を書く5つのポイント>
1)その本を手にしたことのない人でもわかるように書く。

2)作者の他の作品との比較や、刊行された時代背景(災害や社会的な出来事など)について考えてみる。

3)その本の魅力的な点だけでなく、批判的な点も書いてよい。ただし、かならず客観的で論理的な理由を書く。好き嫌いという感情だけで書かない。

4)ポイントを絞って深く書く。

5)「本の概要→今回の書評で取り上げるポイント→そのポイントを取り上げ、評価する理由→まとめ」という流れがおすすめ。


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