【覚え書き】意志と意思は、どっちが強い?
日本語には、「いし」でも、意志と意思がありますよね。
辞書で調べると、意志とは、成し遂げようとする心、物事への積極的な志し、内的意欲、考え、意向とあります。
英語は、”willpower”です。
意思とは、心の中に思い浮かべること、~しようとする考えや思い、意図、で、英和辞典で調べると”intention”ですが、どちらかと言えば意志に近く、意思により近いのは、”mind”の方です。
こうしてみると、意志のほうが、決断レベルでいくと強いように見えますが、もしかしたら逆かもしれません。
”intention”とは意外に強いもので、どんなに強い”willpower”があっても、”intention”が伴っていないと簡単に吹き飛ばされてしまうからです。
つまり、~しよう!という意志(willpower)があっても、どこかにそれをやりたくない、というような感情やセルフサボタージュ(※)があれば、”intention”が勝ち、”willpower”が負けます。
(※)印:
変化を難しくしている大きな理由の 1 つが、心理学でいう「セルフサボタージュ (自己破壊)」という行動です。
これは、何か目標を設定した際に、その達成を妨げる障害を自ら創り出してしまう考え方や行動を指します。
こうすることで、目標を達成できない理由を自分ではなくその障害のせいにできるわけです。
となると、もっと自分の中の意思(intention:感情や思い)をしっかりさぐって、自分の意志と同調させるには何が必要なのか考えてみたいもの。
たとえば、やろうと思って、できないとき、「私って意志が弱い」と結論づけてしまいそうです。
また、やるべきことをなかなかやれない人のことを意志が弱い人だ、と判定してしまうこともないでしょうか。
たとえば、掃除とか、早起きとか、それから、本を読むと決めたのに、読んでないとか。
これ、確かに意志の力もまったくないとは言いませんが、意志に問題があるのとは違うと思うのです。
やろうと思っていても、実際にやらないとき、これは意志の問題ではありません。
意思が絡んでいます。
ダイエットなどもそう。
意志さえ強ければダイエットができるかというと、そうではありません。
逆に、意志が弱いからダイエットできない、というとそうでもありません。
○○は食べない、と決めても食べてしまうのは、意志が弱いからではないのです。
そこには、もっと自分の中にある意思や感情が大きくかかわっているはずです。
固定観念や社会の物差しに捉われることなく、まずは自分(being)にフォーカスしてみる考え方に、それを解く鍵があります。
それから自分のやるべきこと(doing)を考えていく。
食べる食べないを決めるには、いくつか感情が絡んでいます。
食べたい、と、食べたくない。
さらに、ちょっと理論的な思考でいくと、食べるべきと食べないべき。
~するべき、というのは、心からそう思っているなら別ですが、多くの場合、感情の~したい、~したくない、と比べると圧倒的に弱いもの。
セルフサボタージュモードに入っていれば、自然に自分にとって良くないことをする力や感情が働きますから、多少の意志など、吹き飛ばされてしまいます。
逆に、セルフサボタージュではなくて、自分を大事にするモードに完全になっていれば、自分にとって本当に良いことを無理なく自然に選択するようになります。
そうすると、特別固い意志などなくても、自分でこうしようと思うことは、するようになります。
もっと、別なところを見てみましょう。
たとえば、ダイエットをする目的は?
その結果、どんなものが手に入って、それは自分にとって、どれくらい良いことなのか。
それに対する自分の感情、思い、考えはどうなっているでしょう。
逆に、ダイエットしないことは、自分にとって、どれほど「悪」なのか。
悪だけど、妥協できるなら、自分に「悪」を許せるほど、セルフサボタージュなのでしょうか。
掃除するしない、本を読む読まない、禁酒・禁煙なども、ダイエットと同じようなものとして考えてみてください。
あなたが何かしようとしてしていないのは、意志の強い弱いのせいではありませんから、それで結論付けて落ち込んでいたら、そこで終わってしまいます。
もっと、自分の奥にある、”intention”(意思)を探ってみてください。
例えば、ひとつの意思(考え・思い・心持)を決めるにしても、多数の「和(混じり合う。混じり合わせる。調和させる。)」の結合が必要です。
ちょっと考えただけでも、
一、思考(頭と心)の縛りを緩める(調和性)
二、一次元思考を脱し二次元思考による調和(異質の調和)
三、調和を意識した呼吸(息合い)と動作(運行)
など、心のなかに有る色々なステークホルダーが足を引っ張り合ってしまう中なので、難しいことではあるけど、多くの条件が調和しなければ満足のいく”intention”(意思)が得られないかというと、そうじゃないから、心配しないでください。
例えば、苦しみも哀しみも、物事のたった一面にしか過ぎません。
現実は、楽しいばかりでもないし、つらいばかりでもありません。
その気になれば、考え方ひとつで世界は変わってきます。
また、自分の目は、自分を直接みることはできません。
自分をよく見るためには、違う場所から見なきゃダメってことです。
現代社会のあくたにまみれて感覚を麻痺させ、それが時代だからと、そんなセリフひとつですべてを片付けたくないですよね。
もっと人間らしくありたいという思いは、誰しも持っているのではないでしょうか。
今のこの世界は、あまりにも乾いていて、カサカサだけど、人と人をつなぐ情を、鬱陶しいと思いたくない。
よく意見が合わずに不一致って事を言い訳にしがちですが、それって、1:1の視点でしか物事を見ていなかった結果ではないでしょうか。
そう自分が思っているだけで、その時の状況を冷静になってみれば、実は、1:Nの関係だったかもしれません。
ひとつの出来事が不一致なだけで、後は、全て一致してるって考え方や、俯瞰してみる視点が大切だと思います。
自分の考えや常識で、自分を縛る必要はないんじゃないかなとも思います。
人との関係に必要なことは、一致している事や一致していないこと含めて認知不協和を互いに認めながらも内的に、そして外的にも調和して行くことです。
一致と不一致は、白か黒かで判定するものではなく、何時でもグラデーションです。
言われてみれば、不一致と言っても、ちょっと不一致だったり、すこし不一致だったりって事ありませんでしたか?
私たちが完全に一致している状態というのはほとんどありませんし、また、不一致が悪いわけでもありません。
この一致/不一致は、自身の感覚の鋭敏性を高めることに繋がり、内的調和をはかる上でとても大切です。
不一致の状態幅は、一致の状態に気づくことと同じように、とても重要なサインであり、自分の”intention”(意思)を確かなもにするための価値のある情報に成り得ます。
だったら、不調和なものが最も美しい調和を作るのだと気楽に考えて、そして、肩の力を抜いて行こうと考えてみることもできます。
私たちは、より良い関係を作って行くために、自分の中と外の調和を確認しながら、より良い環境に変えていくためにも、今までの常識や先入観を一度忘れて、考えてみることも大切じゃないでしょうか。
世の中は、この先しかないし、先をどう生きるかにかかっています。
初めから分かっていることなど少ないのだから、確かな未来に向けて人の足を停めるのは諦観ですが、人の足を進めるのは、希望などではなく、前へ行く意志なのだと思いませんか。