村上春樹に見る統合失調症:病名が記されない理由
◇序章◇
村上春樹の作品には、多くの場合、統合失調症を思わせる人物が登場します。『ノルウェーの森』『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『アフターダーク』『スプートニクの恋人』『街とその不確かな壁』『羊をめぐる冒険』『ダンス·ダンス·ダンス』『1Q84』『かえるくん、東京を救う』などなど、短編長編含めて殆ど全ての作品において、明確に病名が記されてはいないものの、その症状や行動から統合失調症を予感させる人物が描かれています。
そうした人物を作品で登場させることは、まるで小説を創作する上で村上氏が決して省くことの出来ない一つのお約束事か縛りでもあるかのようにも思えてしまいます。
『騎士団長殺し』においては、なかなか統合失調症らしき人物が登場しなくて、「今回はお預けなのかな」と私も思って読み進めていたのですが、物語の最後の方になって主人公の交際相手の女性の娘がどうやら統合失調症に罹患したらしいと、ほんの数行だけあまり目立たないようにチャッカリと書かれてありました。おためごかしのように。この娘さんは『アフターダーク』の主人公の姉に重複している印象を受けます。
こちらに上げた作品以外にも、探せば実にたくさんの統合失調症らしきキャラクターが見つかるはずです。長編だけでなく短編においてもです。村上春樹作品をまだあまり読んだことがない人は、それらのキャラクターを探しつつ読み進めてみるのも良いのではないでしょうか。
◇病名が記されない理由◇
村上春樹の作品には、意図的に病名が明示されないことが多いです。これにより、読者は登場人物の心情に深く思いを馳せることができます。「なぜ彼や彼女はこのような行動をとるのか?」という疑問を抱きつつ読み進めることで、物語への没入感が高まります。
しかし、もし病名が明示されてしまったら、「ああ、病気なのね」と短絡的に理解されてしまうでしょうし、物語の奥深さが損なわれてしまいます。村上は、読者が登場人物の内面を自分自身で探求することを重視しているのかもしれません。
◇登場人物の特性◇
村上春樹の作品に登場する人物たちは、多くの場合、現実世界から乖離したような感覚を持っています。彼らはしばしば孤独を感じ、自分自身の内面に深く潜り込みます。これらの特性は、統合失調症の症状と重なる部分があります。
例えば、『ねじまき鳥クロニクル』の岡田の妻・久美子は、失踪後に異常な行動を示し、幻覚や妄想の中で生きているように見えます。『海辺のカフカ』では、図書館の館長であり、主人公カフカの母親らしき桜は、過去のトラウマからくる精神的な病を抱えています。彼女の言動はしばしば現実との接触を失っており、読者はその不安定な精神状態に引き込まれます。『1Q84』では、教団から逃げた少女・ふかえりが統合失調症的な特徴を持っています。彼女は世界の現実感を失い、時折意味不明な言動をとりますが、それが物語の謎を深める要素となっています。
さらに、『かえるくん、東京を救う』の主人公も、統合失調症を思わせる症状を示します。彼の見ている世界は常に変動し、現実と非現実の境界が曖昧です。このキャラクターは、読者に現実の歪みを感じさせる重要な役割を担っています。
西洋においては人間はせいぜい悪魔か狼に取り憑かれるくらいですが、東洋の国々においては、蛇や狐や狸や犬や猫や牛や馬や鳥など、様々なものに人間が取り憑かれる話があり多様性に富んでいます。もちろん、羊や蛙に取り憑かれた話もあります。
「安倍晴明の母親は葛の葉という名の白狐だった」という伝承は日本昔話などで子供でも馴染みのある話ですが、それをもってして「安倍晴明の母親は統合失調症だったのではないか」「産後の肥立ちが悪かったのではないか」「更年期障害だったのではないか」などと書かれた出版物は一般的にはまずお目にかかれないのではないでしょうか。
◇社会的背景と偏見◇
現実社会において、統合失調症患者が犯す犯罪が報じられることがあります。特にアイドルの握手会での刃物による襲撃事件などは繰り返し起きている事件です。統合失調症患者による傷害事件では、幻聴から命令を受けての犯行だったりするので、犯行動機は釈然とせず理由なき犯行と呼ばれるような状況に陥りやすくなります。統合失調症患者が放火や殺人などの凶悪犯罪に手を染めたとしても、基本的には無罪となります。これにより、統合失調症患者に対する偏見が助長されることがあります。医療関係者や人権団体は、統合失調症患者が「犯罪者予備軍」としてレッテルを貼られることに強く反発しています。そのため、村上春樹の作品においても病名を明示しないことで、こうした偏見を避けつつ、読者にキャラクターの内面を探求させる余地を残しています。
村上は、登場人物の心理状態を細かく描写し、彼らがどのように世界を見ているのかを詳しく描き出します。これにより、読者は統合失調症の患者が経験する現実の歪みを間接的に体験することができます。村上の描写は、統合失調症の理解を深める一助となるでしょう。
◇批評と反応◇
村上春樹の最新作『街とその不確かな壁』については、一部で彼の初期作『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の焼き直しと批判されています。確かに、長年のファンにとっては既視感を覚える部分もあるかもしれません。しかし、この既視感こそが、村上春樹の作品全体に通底するテーマやモチーフの再確認にもなります。それでも、キャラクターの使い回しが甚だしいとの皮肉も避けられません。
◇現代の読者と村上春樹◇
現代の風潮では、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスが重視される中で、村上春樹の作品のように、長大なプロットや複雑なキャラクターの背景を持つ作品は読者離れが進むのではないかという懸念もあります。登場人物の行動の理由が曖昧なまま物語が進行し、読者がその謎解きに疲れてしまう可能性があります。
世界的ベストセラー作家で活動期間も長いので、当然多くの書評や評論が出版されているのですが、著名な精神科医や心理学者が書いた評論を読んでみても、鬱病や双極性障害やサイコパスや高度脳機能障害など、精神病理の観点から作品を読み解こうとする試みも見られず、強い違和感を覚えてしまいます。医師会や人権擁護団体などからの強い反発があるのではないかと、穿った見方をしてしまいたくもなります。病名を出すことで、彼らの既得権益に抵触する恐れがあるのではないかと勘繰ってしまうのです。統合失調症など精神疾患の切り口から文芸作品を語ること自体がタブーとされているのではないかと疑わしく感じてしまいます。
例えば、河合隼雄や彼の息子の河合俊雄などの著名な臨床心理学者が村上春樹作品について書評を著して来ましたが、統合失調症については全く言及されず敢えて避けているような印象を受けてしまう書評ばかりです。内田樹が書いた村上春樹についての文芸評論本は良く売れた方ですが、内田樹自身が双極性障害であり、その評論本を書いた時は躁状態でした。
ですが、近年はインターネット上で読者が自由に書評を投稿できるようになったことで、村上春樹の作品と統合失調症の関係が指摘されることが増えてきました。私のように村上作品やその書評やそれを取り巻く社会現象に対して違和感を覚えた大勢の人々が、以前から潜在していたということなのかもしれません。こうしたことはインターネットが発達する以前の活字文化がメインだった頃には、見られない現象でした。
芥川龍之介は統合失調症の症状や睡眠薬の副作用に苦しみながら作品を書いていましたが、そのような予備知識を全く持たずに『歯車』という彼の遺作を読んでみたところで、読者に誤解を与えてしまい、作品の内容が殆ど掴めず読むだけ時間の無駄になってしまうのではないでしょうか。芥川の病状については、作品のあとがきではなく、作品のはじめの方で説明しておいてほしいものです。
もちろん、村上春樹の文学作品についてはそこまで説明的になる必要もないのかもしれません。説明的ではないだけ、逆に現実をよりリアルに表現出来ているとも言えます。医療の現場では長期間にわたり通院していた患者が連絡もないまま突然来院しなくなったり、あっさりと自殺してしまったりして、医療従事者が虚をつかれることは決して珍しいことではないのだから。説明など追い付かないことばかりなのだから。
◇総評◇
総じて、村上春樹の作品における統合失調症の描写は、病名を明示しないことで読者の想像力を刺激し、物語の深みを増しています。しかし、今後もその手法が読者に受け入れられるかどうかは、時代の流れと共に変化していくでしょう。
病名が書いてあれば一行で説明が済んでしまうような身も蓋もない内容であっても、何百ページも費やして延々と物語をこねくり回した末に、キャラクターを蒸発させたまま作品を閉じてしまう。何十年もの間、何十冊にもわたってそのような行為が繰り返されて来ました。そのことに対して世界中の読者も時間の浪費などとは考えず、村上の作品に長年付き合ってきましたが、作家本人の年齢のこともあります。今後どの様な作品が世に送り出されてくるのか、注目していきたいところです。
ネット書評により、作品のネタバレが進み、エンターテイメント性が低下するという懸念もあります。読者が私立探偵のように登場人物の行動の理由を探りながら読み進む楽しみが、こうしたネタバレによって減少する可能性があります。ライターの仕事も失われてしまうのかもしれません。
村上春樹の作品は、その独自のスタイルと深い心理描写によって多くの読者を魅了してきましたが、「お手軽に要約された書評などで済ませられるのであれば、それに越したことはない」と、そう思わせるような作品になっていくのでしょうか。これからもその魅力を保ち続けることができるのか、興味深く注視され続けてもらいたい作家の一人です。
ノーベル文学賞を受賞しない方が話題性を保ち続けられて、却って良かったのかもしれません。