書くということ
何かを書く時は、書く内容やテーマを事前に考えて用意をしている。書き始める段階で、頭の中で構成が出来上がっている状態だ。
もちろん、テーマだけを掲げて書きながら考えをまとめることもある。だが今日は全くのノープランで何かを書いてみようと、今パソコンの前に座っているところだ。
大前提として、『伝えたいこと』があるから我々は何かを書く。
逆を言えば、伝えたいことがないのなら書く必要はないとも言える。つまり、伝えるということが目的で、書くというのはその手段という考え方だ。
その意味で私は今伝えたいことがない(とする)
すると、目的自体を失ってしまい手段が目的に変わってしまう現象が生まれる。なので、今回はこのまま『書く』というのはどういうことなのか考えながら執筆していきたい。
『伝えたいこと』と言っても、これは何も他者にばかりではない。自分に対しても伝えたいことはあると思う。例えば、メモ帳に買い物リストを書く。これはスーパーに行った時の自分に伝えたいことと言える。
誰に見せることもない日記を綴るのも自分のためであろう。その時に思ったことや感情を残すことができる。
瞬間を残すという意味では『写真』に近いのかもしれない。とある写真家が「人は感動した時に写真を撮る」と言っていた。
自分に子どもが産まれると、子どもの写真が増えていく。もちろん、子どもが可愛くてそれを残しておきたいというのもあるが、自分が感動してるからその瞬間を写真に撮っているという。
海外旅行で写真を撮ってしまう原理も同じだ。見慣れない風景、文化に触れて感動のハードルは下がり、あちらにとっては何気ない景色にも感動して写真を撮っている。
感動というと涙を流すような大袈裟なものを想像しがちだが、要するに心が動くということで、心が動いた時が表現の出発点だと言うのだ。
これは写真に限らず表現の本質だと思う。その感動を他者に伝えるとなると、また違うファクターが必要となるが、出発点として必要なのは『自分が感動すること』というのは金言であろう。
書くことに話を戻し、これが創作や表現のためなら何が必要かと考える。もちろん、たくさんの本を読むことは大切だろう。同時に写真理論で考えれば、自分が感動する(心が動く)体験も同じくらい大切なはずだ。
そのためには感性を働かせながらアンテナを張り、様々なことを経験、体験していくことが表現することの武器に、そして根幹になる気がしている。
私もこのnoteという場所で書き始めてもうすぐ一年が経つ。決して多くはない投稿数だが、書くことによって自分の考えがまとまったり、思いもよらぬ発見があったり、新しい問いが生まれたりしている。そのことが実生活でも刺激になり、程良い充実感を得られている。
それが続けられるのも、決して多くはないが読者(今これを読んでくれているあなた)がいるからだと思う。自分が書いたものを読んでもらえるのは、生活の中で誰かと会話をすることより嬉しい。
だから、書くことは続けていきたいと思う。その上で心が動くような経験、感動するような体験を重ねていきたい。
楽しいことばかりじゃなくてもいい。
悲しいことだって、いつか書くための糧になるから。
最後まで読んでくださりありがとうございます。サポートいただいたお気持ちは、今後の創作活動の糧にさせていただきます。