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【小説】(最終話) 透明の家 《第七話 後編》



 私には夫がおりました。


 新卒で入社した銀行で出会った、とても穏やかな男性です。
周囲の人にとても優しく、会社の人たちからの信頼も厚かったその人は、表情のあまり変わらない私に対しても明るく微笑み続けてくれました。

その優しさは会社の外でも変わらず、見知らぬご老人や子供たちからも好意をもたれるような素晴らしい人格の持ち主でした。私は彼が店員さんに横柄な態度を取ったり、誰かの悪口を言っているところを見たことがありません。



 こんな菩薩のような人がこの世にいるのか。



 私は本気でそのように思い、いつしか彼に恋心を抱くようになったのです。

 それまで恋というものをしたことがなかった私にとって、それはまさに青天の霹靂でした。

 数少ない友人に色々とアドバイスをもらい、書物やネットで恋愛テクニックに関する情報を集め、会社の人から彼の好きなものなどを教えてもらったりしました。そして、迷惑にならないように細心の注意を払いながら、少しずつ、少しずつ彼との距離を縮めていったのです。




 出会って二年目の春、二人で社内の資料室にて作業していた時のこと。


 その日は澄み切ったような晴れの日で、「こんな青空の日にこんな暗いところにいたら、もったいないから」という彼の提案によって、窓を大きく開いたまま作業をしておりました。
 二人で黙々と作業をしていき、さあ片付けようかというタイミングで、開けておいた窓から強風が吹き込んできました。

 そして、次の瞬間、部屋中が春風に舞い上げられた桜の花びらで満たされたのです。

 二人ともしばし茫然とその光景に見入り、立ち尽くしていました。先に正気に戻ったのは私の方で、すぐさま机の上に開いていた数冊のバインダーの隙間に満遍なく挟まった花びらを取ろうと手を伸ばしました。



「あはは!まさに桜吹雪ですね」
「ええ、本当に」
「いやあ、それにしても綺麗でしたね」


 そう言って彼は窓から少しだけ身を乗り出して、



「きれいなものを見せてくれて、ありがとう」



と、窓の外に佇む桜の木に向かってお礼を言ったのです。


 彼の背中の白いワイシャツに春の柔らかな日差しが当たって、まるで天使の羽のように淡い光を発していました。



 私は、その瞬間に心の奥で何かが弾ける音を聞きました。




 そして、あと先も考えずに、




「好きです」




という言葉を口走ってしまったのです。



 彼は振り返ると、ぽかんっという表情で私を見つめました。私はもう今しかないと思い、もつれる舌をどうにか動かして、心のうちを必死に打ち明けました。


 人生であんなに緊張した瞬間は後にも先にもございません。


 彼は私の言葉に黙って耳を傾けてくれました。茶化すことも、途中で遮ることもしませんでした。ただ、静かに、私の蚊の鳴くような震える声を聞いてくれていたのです。




「……ありがとうございます、深海さん」



 一人で息を切らしている私に、彼は優しく目尻を下げてくれました。




「正直なところ、僕は女性とお付き合いをしたことがありません。なので、礼儀作法なども把握し切れていないかもしれない」

「それは、私も同じです」

「……もしかしたら、貴女を傷つけてしまうかもしれません」

「私は、貴方に傷つけられない自信があります」




 我ながら根拠の無い発言だったと思います。
 彼もこぼれ落ちそうなほど目をまん丸にして、私の顔を見つめていました。

しかし、私にとってはそんなことを口走ってしまうほど、一世一代の大勝負だったのです。



 しばらくの間、資料室には外から聞こえる鳥のさえずりだけが響いておりました。何度目かの春風がふわりと流れ込んできた時、彼は柔らかな微笑みを浮かべて、私に手を差し出してくれました。




「……ありがとうございます、深海さん。よろしくお願いいたします」




 まさに、私の心に春がきた瞬間でした。





 その後、私たちはゆっくりとした速さでお互いの絆を深め合っていきました。

おそらく、他の人たちよりも大分歩みが遅かったのではなないかと思われます。しかし、私はそれでも大変な充足感に満ち溢れていました。

彼を知れば知るほど、その優しさや誠実さ、物事の考え方、人への接し方などに、途方もなく惹かれていったのです。彼もまた、私を尊重し、深く慈しんでくれました。


結婚するなら、この人しかいないと思いました。


 私たちはその後、当然のように結婚しました。
結婚生活はとても穏やかで満ち足りた、夢のような日々で、私は彼と人生を歩んでいけるということに本当に、心から幸せを感じていましたし、彼も自分の家庭を持てたことにとても喜んでいました。

私たちは本当に順調だったのです。


たった一つのことを除いては。




「あなたたち、まだ子どもは作らないの?」




 結婚から三年。
そう尋ねられる機会が増えました。

実家の両親や義理の母だけでなく、親族や会社の人までがそう尋ねてきました。


 私たちはその度に返答に困っておりました。
プライベートなことを軽々しく尋ねられている、ということに対する困惑もありましたが、それとは別のベクトルの問題があったからです。



 私たちの間には、肉体的な交渉がほとんどなかったのです。



 交際中にも何度か挑戦してみましたが、どうしても続けることができませんでした。


「……ごめんね、愛美。君のことは、本当に大好きなんだ。大好きなんだけど……」


 その度に繰り返し頭を下げる彼に、私は胸を締め付けられる思いでした。無理はしなくて大丈夫と、丸まった彼の背中を優しく撫で続けた夜は数えきれません。


しかし、本心では彼に触れてもらいたかった。
そして、私も彼に触れたかった。


 彼以外に抱いたことのない初めての気持ちに、私自身も戸惑っていました。 

 私は自分自身に女性の魅力がないことが原因なのではないかと考え、必死に対策を行いました。

 太りにくい体質だった私は、女性的な丸みを出すためにあえて高カロリーのものを無理して食べたり、好きだったショートカットをやめて髪を長く伸ばしたりしてみました。

 さらには、気分を高揚させるという香水や大胆な下着を買ったり、滋養強壮に効く食材を積極的に食事に取り入れてみたりと、思いつく限りのことを試みたのです。

それがさらに彼を苦しめるということにも気づかずに。



 ある日のこと。
 会社から帰宅した彼を出迎え、いつも通り二人で夕食をとっていました。いつも通りの、幸せな時間。そのはずでした。



「……ごめんね、愛美」


 彼が突然、苦しそうに嗚咽を上げたのです。
前触れもなく、本当に、突然。



「ごめん。ごめん。僕が悪いんだ。苦しめて、ごめん。ごめんね、愛美……」



 私は泣きじゃくる彼の肩をさすりながら、その合間合間にこぼれ落ちる言葉を注意深く拾い上げていきました。




「ぼ、僕は……本当は女性を愛することができないんだ」




 息と鼓動と時間が、同時に止まりました。

 人というのは、本当に驚くと声も出せないものなのだと、この時に知りました。




「だけど、君のことは人として、本当に愛している。だからこそ、大丈夫だと思った。だけど、どうしてもそういうことはできない。黙っていてすまなかった……。愛美、本当にごめん……」




 私は真っ白になった頭をどうにかこうにか動かして、彼を傷つけないような返答を必死になって考えました。


しかし、口から出たのは、



「……じゃあ、どうして結婚なんてしたの」



でした。


ハッと我に帰った私は、咄嗟に口を手で抑えました。
彼を責めるつもりなど微塵もなかったのです。
ただ、純粋な疑問だっただけなのです。
しかし、そんなことを言っても時は戻せません。



 彼は体をぎゅうっと縮こませてしばらく震えた後、突然リビングの床に頭を擦りつけて、私に土下座しました。 



結婚に対する親からの期待。
適齢期という社会からのプレッシャー。
会社での地位の確立。
一般的な家庭を持つことへの義務感。
それらに耐えることができなかった。



 彼は正直に、全てを打ち明けてくれました。
 泣きながら、震える声で。



 私は、ここまで自分に真摯に向き合ってくれた彼を憎む気にはなれませんでした。むしろ、そんな彼の苦しみに気づけなかった自分を、殺したいくらい憎んだのです。




 私が彼に告白しなければ、彼はこんなに苦しまなかった。

 私が結婚なんてしなければ、彼はもっと自分らしく生きていけた。

 私が無駄な努力をしなければ、彼の罪悪感はここまで膨れ上がらなかった。
 そして、私を含む世間が彼に『普通』を押し付けなければ、彼はこんなに涙を流して傷つくことはなかった。




 彼のことは今でも心の底から愛しています。
 しかし、私は離婚の道を選びました。


 許せなかったのです。


 彼を追い詰めた世間も、彼の苦しみに気づけなかった自分も。


 私が彼のためにできることは、そのままの彼らしく生きていけるように、私自ら手を離すことだけでした。





「離婚後、私は周囲から再婚を勧められました。まだ子供を産める年齢だからと、両親や親族は躍起になって私を結婚させようと試みましたが、頑としてそれには応えませんでした。私は、結婚がしたいわけでも、子どもが欲しいわけでもなかったのです。私は彼と結婚したかった。彼の子どもが欲しかった。ただ、それだけだったのです」



 飾り棚に飾ってあった天使の人形のふっくらとした頬を、深海さんの白魚のような指がツンっとつつく。


「しかし、それでも周囲は『結婚しろ、子どもを産め』と迫ってきました。それほど干渉的ではなかった私の両親でさえ、一概に同じことを言ってきたのです。図らずも、私は彼と同じ経験をすることになり、周囲の圧力というものがどれほど残酷であるかということを、この時に身をもって知ることができました」


 彼女はゆっくりと瞼を開閉し、そして再び私たちを真っ直ぐに見据えた。



「……私は、彼のように追い詰められた人を、もう見たくはないのです」



 会場中に繰り返し響き渡っていた賛美歌のコーラスが緩やかフェードアウトしていく。


「私、数学が大の苦手でして」


 ──突然何の話だろうか。
 彼女の話を聞いていた全員が、全くもって同じタイミングで首を傾げた。


「言葉の一つ一つの意味はわかるのですが、それが頭の中でどうにも組み立てられないのです。どうしてそういう公式に当てはまるのか、どうしてそういう解が出るのかがわからない。私たちの話をしているとき、きっと相手もそういう状態になってるのではないかと思われます。何度説明しても理解してくれない、というよりも純粋に理解することができない。その人が経験したことのないことなら尚更、「そんなはずはない」と思われてしまう。だから聞き流されてしまう。そうすると、どうなるか」


 途切れた言葉を促すように、彼女の顔を窺う。




「なかったことにされてしまうのです。私たちのこの考えや気持ちは、存在しないものにされてしまうのです」




 心臓に凍てつく水を注がれたように、身体中の血液が凝固した。



 彼女の周囲にいた人間は、誰一人として口を開かなかった。
いや、開けなかった。


 深海さんがハルさんの方へと体を向き直して、しめやかに、だけど確かな力強さを込めて語りかける。



「ハル様。誰かの心を満たすために、あなたの幸せを諦めてはいけません。私のこの言葉でさえ、あなたにとっては外野の人間の言葉なのです。あなたが納得しなければ、耳を傾ける必要はありません」



 ただひたすら、穏やかな眼差しが彼の顔に注がれている。


「でも、どうかお忘れにならないでください。誰かを好きになること、ならないこと。それは、相手が同性でも異性でもその他でも、ご本人以外の人間が口出ししていいことではないのです。誰かを傷つけたり、周囲に迷惑をかけなければ、それで良いと思います。それを肝に命じておかなくてはならないのは、私たちも同じです」


 ふいっと、彼女の目線が動く。
その先には、ナツさん達がいた。


 ハルさんは眉根をぎゅうっと寄せた。
それはあまりにも悲痛に歪んでいて、今にも泣き出してしまうのではないかと思うほどだ。


 彼はきっと、今までの自分の行いに気付いたのだろう。
気づかないうちに、他人を自分の固定観念の枠にはめ込んで見てしまっていたことに。

だけど、それは私にも身に覚えのあることだった。
今の私は、きっと彼と同じ表情をしている。



 愕然としている彼に、深海さんはいつも通り悠然とした微笑みを向けた。



「私が望むのは、このMaison Clairの利用者が増えることではありません。むしろ、なくなってほしいと考えております。このMaison Clairのような施設がなくなっても、各々が自由に、自分らしく生きられる社会になってほしいのです」



 ゆらゆらとしたキャンドルの明かりが、彼女の真っ黒な瞳の表面で揺れていた。熱い炎の形をしているのに、その光はどこか凪いだ海のように寂しげだ。

その小さな光を、誰もが口を噤んで見つめていた。
そこには、今までに見たことのないほど、彼女の感情が顕著に滲み出ていたから。


「あ、だからといって皆様を追い出すようなことはございませんので、ご安心くださいませ」


 顔をあげた次の瞬間には、いつもの深海さんに戻っていた。
いつもどおり、マネキンのように完璧な笑顔を貼りつけた彼女は、ポケットに忍ばせてあった吹きこぼしを徐に咥えて、


「長々と失礼いたしました。間も無くビンゴが始まります。豪華商品をご用意いたしましたので、皆様、ぜひお楽しみに」


といいながら、プピーっとそれを鳴らし、颯爽と会場の裏手に消えていった。


 その場に残された私たちは、ただひたすら明るいクリスマスソングに包まれていた。



「……深海さんの話、はじめて聞いた」



 一番最初に口を開いたのは三船さんだった。ほとんど口から溢れ出た独り言のような彼女の言葉に、他の人たちはただただ静かに頷いた。



──誰かの心を満たすために、あなたの幸せを諦めてはいけません。



 彼女のセリフが耳の奥で蘇る。まるで心の網目に詰まった塵を吹き飛ばすかのように、体の中を強風が吹き抜けた気がした。



「Jesus bleibet meine Freude……」

「え?」


 ハルさんの言葉に、ナツさんが聞き返す。


「彼女が話してた時に流れてた、賛美歌の名前だよ」

「……あの優しくて、寂しげな曲?」

「そう。彼女はきっと、自分のイエスに出会えたんだね」

「……意味分かんない」



 相変わらず取り付く島もないような口調でナツさんが返すと、ハルさんはひとり苦笑した。



「……けど、あとでちょっと調べてみる」



 ナツさんはそっぽを向いたまま、グラスに入っていたシャンパンをちびっと口に含む。

照れた子供のようにムスッとした彼女の横顔を、ハルさんは溢れそうなほど見開いた目でしばらく見つめた後、静かに微笑み、


「うん」


と、一言だけ返していた。







見渡すかぎり青い空。
路肩に残っていた雪も溶け、植物たちが我先にと競い合うように緑の芽を伸ばしている。

まさに絶好の引越し日和だ。



「あ!宮小路さん!」


 こちらに近づいてくる女性の影に向かって手を振る。高いヒールを履きこなしたその女性が、すらりと伸ばした腕を高々と掲げて手を振り返してくれた。


「こんにちは」


 三ヶ月ぶりの彼女は、初めて会ったあの夜とは打って変わって、すっきりとした顔で挨拶を交わしてくれた。


「宮小路様。お待ちしておりました」

「深海さん、お世話になります」


 玄関先で一緒に彼女を待っていた深海さんに向かって、丁寧に頭を下げる。しばらくぶりの再会に少々照れくさそうにしていた宮小路さんの目が、ふと、エントランスの奥を捉えた。




「……本当にいいわけ?真実の愛とやらを追いかけなくて」




と、そこに控えていた人物に皮肉とからかいを込めてニヤリと笑顔を向ける。



「君こそ、毛嫌いしてる俺が相手でいいの?」




 コツコツと靴を鳴らしながら日向まで出てきた北園さんが、応戦するように口の端を上げて答えた。


「まあ、あのビンゴ大会で一等賞もらっちゃったしね」


 そう。クリスマスのビンゴ大会で一等賞を獲得したのは宮小路さんだったのだ。


 一等の景品は最新型の冷蔵庫。

素晴らしく高性能で、容量も充分すぎるほどの代物だった。

だけど、彼女が住んでいた家には、それを置く場所がなかったらしい。




「それに、深海さんが決めてくれたんだから、間違いないでしょ」

「それもそうか」




 ふっと、二人の頬の筋肉が緩む。
両者とも、清々しい顔をしていた。



 深海さんは玄関脇に立ち直し、接客講習のプロ講師のような、美しい角度のお辞儀を披露する。





「ようこそ、Maison Clairへ。お二人のご入居を、心より歓迎いたします」




私たちの間を、暖かく穏やかな風が吹き抜けていった。
外はもうすっかり、春の気配で満たされていた。


(了)



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