クッキー生地のように、引き延ばしていく命|「死にがいを求めて生きているの」
※ たぶんネタバレするので、未読の方はご注意ください。
朝井リョウ著「死にがいを求めて生きているの」を読了した。
朝井リョウ氏の小説を読むといつも思う。この人は、私の中にある、誰にも見せていない異常性を、いったいどこから覗き見ていたのだろう、と。
本作も御多分に漏れず、文明社会で生きていくために被っているまっとうな人間の皮を一方的に剝がされる恐ろしさと、奥底で孤独に体育座りしていた病的な本質を見抜かれる快感の双方に苛まれながら読み進めることになった。
冒頭ではぼんやりとしか見えない堀北雄介と南水智也の関係は、環境も立場も時系列も異なる6名の物語を歩むことで少しずつ輪郭を作り始める。そして、6名の物語もそれぞれ何かを抱え、何かに迷い、物語で描かれるところでですべてが綺麗にまとまるわけではなく、その先まで揺らぐ人生が続いているさまが透けて見えるようだった。
テーマはおそらく「生きがい」そして「死にがい」だろう。物語の中心になる6名、いや、堀北雄介と南水智也とそれを取り巻く人間たちは、文明社会でまっとうな人間として生きていくために「生きがい」と「死にがい」を必死に探して、捏造して、掴んで、しがみつく。
巷でまことしやかに語られている「存在するだけでみーんな特別❤」なんていう文言を、手放しで受け入れられる人がどれだけいるのだろう?
仕事、趣味、恋愛、子供…何かを通さないと自分の存在意義が感じられなくて、そうでもしないと不安で不安で仕方ない人がほとんどなのではないか。
何もないまっさらな自分をまっすぐ見つめて、全肯定できる人なんているんだろうか。
色々なものにしがみついて、それらを通してやっと立っている雄介とその周りの人間を見て、何度も反芻している疑問がまた頭の中で響く。
「生きがい」「死にがい」を軸に展開していたストーリーは、最終章でそれらと並列しながらずっと息をひそめていた「対立」に突如スポットが当たる。
ここで気づく。そうか、この小説の登場人物たちは、全員何かと戦って、「勝つ」ことを「生きがい」「死にがい」にしてきていたのか。そして
、そこから脱却しようと暗闇で言葉を搔き集める智也の小指が動いたところで結びとなる。
釈然としなかった。爽快な読後感とは程遠かった。
終盤で智也が必死に搔き集めた言葉は、"長老"の家で終盤に雄介が放った言葉と拮抗する。
智也もまた、父親という絶対的な敵に対抗することで、それが確固たる「生きがい」「死にがい」になっていたのではないか。それは、智也自身も気づいていることだった。そして、それに対する反論は"長老"の家でも、その後の病院の暗闇の中でも、明確な答えは提示されていない。つまり、「対立」によって「生きがい」「死にがい」を見出すことに対して、是も非も明言されていないのだ。しこりの残る読後感は、答えを求めて読み進んでいた自分に向けられた【その先は自分で考えろ】という朝井リョウ氏からのメッセージにたじろぐ心なのかもしれない。
さて、第一章 白井友里子 にて、雄介がこんな言葉を放つ。
読み進めたページがまだ1センチくらいしか積み重なっていないところで出てくるこの言葉で、強く胸を打たれてしまった。
本作を最後まで読み進めれば、このシーンの印象はまるで変わってしまう。おそらく全ての読者は、第一章を最初に読んだ時に受けた"いい話"の印象が跡形もなく崩れ去ってしまったことだろう。もちろん、私もそうである。
ただ、最後まで読んでも、雄介の病的な本質に気づいてしまっても、1センチ読み進めてこの言葉に出会ったときの衝撃と感動は揺らぐことはなかった。この言葉をお守りにして、これから生きていきたいと思う気持ちは変わらなかった。
"親友の看病"を次の生きがいに選んだ雄介。看護師に嘘をついて、智也の恋人を避けて、より長くその生きがいにしがみつくために全く知らない音楽を智也の耳元で流す雄介。虚構を積み重ねる雄介の行動の中でも、翔太と友里子に語る上述の言葉は、虚構だとはどうも思えなかった。
ここが本作で唯一差し込む光なのではないか。少なくとも、私はそう信じたいと思った。「対立」も「生きがい」も「死にがい」も、本作の中では是も非も語られていない。日常生活のなかで、それらの正解を求めて苦しむ私たちと同じように、物語の中では誰も答えにたどり着いていない。でも、今日が、何かが変わる前日なのかもしれない。答えの出ない暗闇の中で、繰り返しにしか思えない毎日の中で、一日ずつ、クッキー生地を引き延ばすように生きてみようか、と思った。