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原風景、抽象の過程

 引越しの荷造りで部屋を片したとき、幼稚園や小学校で使っていた色鉛筆やクレパスが出てきて、懐かしくなってぜんぶ広げてみたらどれもみずいろだけがいちばん短くなっていた。

 このあいだ、初めてお会いした方に、会って早々に「水色が好きなんですか?」と訊かれて、(え!なんでだろう、ジャケ写の印象?)と思っていたら、もちものに水色が多いから、と言われた。バレてる。

 引っ張り出した画材を並べて眺めていると、迷いなくみずいろを手にとっていただろう幼い手と、水色の写真ばかり切り取るいまの指先が重なる。当時まさにその色鉛筆を使って描いていた学級新聞やノートなんかも出てきて、自分で描いた漫画に登場してた自分はいつも水色のお洋服を着ていた。こんなに字が覚束無おぼつかない頃からもわたしってわたしだったのか〜、と感嘆する。

 10月、わたしが一年でいちばん調子が悪くなる月の初めに、わたしが生まれ育った家を手放すことになった。一家大移動だ。明日、目が覚めて家を出たら、もうこの家で寝ることは二度とない。わたしたちが出て行ったら床も壁もぜんぶフルリフォームされるらしいので、この家自体もうどこにも存在しなくなる。

 本当はまだ、あまり実感がないのだけれど、なのに、どの部屋もすっからかんになっている。

 引越しのために断捨離をしていると、自分が持っていたモノの量に驚くが、それ以上にモノと向き合うたびによみがえる自分の思い出の整理のほうが大変だったりする。

 この荷物の中からいまの自分に必要なものだけを取り出したらきっと半分くらいの量になるのだろうけど、まとめてゴミ袋に突っ込んだり、適当に処分したくはなかったので、壊れてしまったワイヤレスイヤホンを自治体のリサイクルに出す方法を調べたり、母校に確認をとって中学時代の制服を寄付しに行ったり、まだ使えるものは人に譲ったりと時間をかけながらすこしずつお別れしていた。わたしなりの、モノに対する感謝のつもりで。

 そこまでしてモノにこだわる必要はない、モノがなくなっても思い出は無くならない、そんなことをしてる時間のほうがもったいない。そのとおりで、目に見えなくても存在するものは確かにたくさんあるのだけれど、、でもやっぱりほとんどのものは、目に見える形になってやっと自分の世界に迎え入れられるようになるんじゃなかろうかと思う。だからわたしはプレイヤーも持っていないのに、自分の部屋に飾るためだけに聴けもしないレコードを買ってしまうのだ。好きなものは物質として持っておきたい。眺めていると、自分の愛する世界を覗ける窓になってくれるから。

 そんなことをぼけーっと考えながらからっぽの部屋でごろごろしていたら、物はなにもないのに部屋の至るところに過去のわたしが幽霊みたく現れているのを感じた。

 この家でのいちばん古い記憶は、3歳くらいのとき、夜、部屋で過ごすわたし。当時はいつも自分の部屋でひとりで寝ていたのだけど、夜はあまり眠れなくて真っ暗な部屋で音を立てないようにぬいぐるみと遊んでいた。

 なかなか一緒に時間を過ごせなかった母親がある日、毎晩ひとりで眠りにつくわたしを案じて、夜だけぼんやり光る星のシールを天井に貼ってくれた。電気をしばらく点けてから消すと真っ暗闇のなかに星が浮かんで、部屋が宇宙みたいになった。

 今とは全然雰囲気が違うけれど、そのときのベッドの向きもそのときに抱きかかえていたぬいぐるみの姿形も憶えている。

 そのあと、捨てられてしまったぬいぐるみたちのことを想って机の下で静かに泣いていたのもこの家、小学生のとき宝物だった大量の本と漫画を壁一面の棚に並べていたのもこの家、パソコンに向かって仕事をしている父親にちょっかいをかけながら隣の机で絵を描いていたのもこの家、家族の悲しい知らせを告げられたのもこの家、朝練のために苦手な早起きをしていつもぎりぎりになりながら飛び出し、夜遅く帰ってくるのもこの家、どうしても行きたくて堪らなかった高校を目指して朝も夜もひとりで受験勉強をしていたのもこの家、気の合う友人ができて家に招いたときのこと、学校が楽しくて毎日あちこち駆け回っていたときのこと、絶交した日のこと、自分の未来も周りの人間も世界もぜんぶが怖くなって朝に起きられなくなったときのこと、どうしようもなくどこかに逃げたくて一人旅に出掛けたときのこと、自分がつくった映像をうまれてはじめてYouTubeにアップロードしたときのこと、親と大喧嘩して家中のものをひっくり返して家出したときのこと、いつもはもうほとんど忘れかけている記憶ばかりで、部屋の一角を目にしたときに浮かんでくる思い出たちがすべて集約しているのが今のわたしだと思うと、この家を離れると同時にたくさんの自分が置き去りにされちゃいそうで寂しくなった。この家に帰れなくなっても、今までのわたしのこと、思い出せるだろうか。

 家というのは、存在が大き過ぎてその存在を感じられない。最後の夜に思い返しているのも、家との思い出じゃなくて、家での思い出になっている。お家さん、わたしに住まわれてご迷惑じゃなかっただろうか。わたしがまだ小さかった頃、キッチン横の壁にくじらの絵を落書きしたり、床に熱い紅茶をこぼしてしまってごめんね。怒りのぶつけどころを見失ったとき、たまに壁を蹴っ飛ばしたこと、反省しています。ごめんなさい。綺麗にしてもらったら、新しい住人さんに大切に住んでもらえますように。

 幼少期や十代の頃くらいの心がやわいときに触れた、痛みを伴った美しさ、その記憶に丁寧に色と輪郭をつけて世界に還元するために、残りの人生があるのかもしれない、と近頃考えるようになった。来世でもまたその美しさを味わえるように

 自分という人間の基盤が形成される過程のもう二度とこない時間のほとんどを過ごした家で迎える最後の夜、部屋はどこもすっからかんで経年で白壁は変色していて、あまりに殺風景だけど、リビングに行くと数年前にペンキを使って自力で塗った水色の壁が目に飛び込んでくるので、やはりわたしはわたしだな、と思いながら、わたしが生きた証、いま、間違いなく自分の目の前で物質として存在している家がこの目で見れなくなったとき、自分の記憶の中でも存在する家になってくれるよう生まれ変わらせるため、目に焼き付けている。

 次にわたしが、幼少期の自分のホームビデオを観るときにはもう、この家は人生で二度と辿り着けない場所になっていることが不思議で、寂しい。

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