好きとかもうやめてほしい
わたしは今まで、本当は心底好きだとおもってるものたちを「気に入ったから自分の側に置いておいてるもの」だと脳内解釈していたらしい!
たぶんいつも、自分の選択で側に置いてる、って主導権を握っていたいから認めたくなかったんだ。いやだー!好きなものが忽然と姿を消したり変えたりでもしたらわたしはきっと発狂する、なにかに心を掻き乱されること、そんなのみっともないって何処かで思ってるから、わたしが自分で選んで側に置いてやってる、みたいなスタンスなんだ。だって好き、は決して対等じゃない。相手に見えないところから勝手に自分がひざまずいている気がする。いや、ひれ伏している。ハハァ…
わたしは、音楽も映画もお洋服もなにかに感動したり好き!と感じた気持ちをずっと誰かと共有したいけど、それを誰かに言うということは、同時に「自分の周りにあるものは、自分で選んで側に置いているわけでなく、自分にはどうにもできない引力で惹きつけられて、自分のほうからここに来てしまった」と高らかに宣言することであり、つまり、到底敵わないと敗北を認める行為であるので、大変恥ずかしいことである。しかも、もしそれで誰かと好きな気持ちを運良く共有できて、自分だけのものでなくなったとき、恋焦がれる気持ちが成仏して消えちゃうかもしれないと懸念している。だからひとりで抱き抱えるしかないと、ずっと思っている、思ってきた。好きって苦しい、そういえば、憧れると焦がれるって言葉はよく似ている。好きを認めることは、忠誠を誓うことであり、自分の胸に灯された小さな火を生涯かけて永く長く守るには、火加減を調節しながら、じりじりと胸が火傷するような痛みにじっと堪えるしかない。今まで、わたしは好き、に確かに希望を与えられてきた。こんなに素晴らしいものがある世界、まだまだ捨てたもんじゃない、そうやって酸素を補給して頂いた。それなのに、好きなものと対峙するときはいつも寿命が削がれるような想いだ。これは、生かされていることへの代償なのか…。
頑張って自分の足で立っていれば、なにかにひれ伏す必要もないと信じていた。だから余計に認めたくなかったのかもしれない。
しかし、好き、というのはいかにも野生的で暴力的であり、そんな理性や論なんてお構いなしに遠い彼方から吹っ飛んでくるものである。あちらから飛んできた隕石が、わたしにぶつかってもその衝撃すらなかったかのように向こう側に飛んでいく。そんな感じだ。「これ好き〜。え、あなたも!?」って、わたしにとっては「最近めちゃくちゃでかい隕石が突如降りかかってきて肋骨粉砕されたんだけど…え、あなたも!?」みたいな感覚なのかもしれない…。そんなの言いたくないに決まっている
わたしは今まで頑なに認めてこなかった好き、を自覚してしまってとても混乱している。どうしてこんなに素晴らしいんだ、そして揺さぶられたこころのぜんぶを誰にも共有できないことが苦しい。あーあ!宙ぶらりんだ。わたしは好き、って気持ちを味わうとき、幸福だとか、甘さとか、ほとんど感じなくて、いつも"好き"に襲われるような感覚だ。隕石がぶつかり通り過ぎたあと、ぼろぼろに打ちひしがれたわたしからどんなに手を伸ばしたって、強烈な輝きと熱を纏って飛び回るあのスピードには到底届かない。息も絶え絶えに、一瞬しか触れなかったあの流れ星が何処かで燃え尽きずに地球をもう一周回ってこちらに来てくれるのを待つことしかできない。むかしから、みんなが憧れる人のこと、スターって言うし。だから、きっと好きってこんな感じだと思う。そんなふうに、好きに遭遇すると、現実世界から真っ暗闇の宇宙に放り出されて置いてけぼりにされたかのような気持ちになる。突然現れて突然去るなんて、あんまりだ。
好きなものが増えるって苦しい!好きになりたくない!自分の人生に集中させてくれ!惑わさないでー!この世を去るときか去られるとき、悲しむ理由が増える、それは困る、そんなドロドロした想いをわたしは死に際に残したくないんだ、きれいさっぱりお別れしたい、だから世界、わたしのこころを揺さぶるものをこれ以上増やさないでくれ、頼む
しかし、やはりこれ以上に美しい揺らぎは、見当たらないんだよな
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