たからもの
なにかの拍子に自分の幼少期を思い出すと、訳もわからず鼻先がつんとして涙目になる。自分の手が映る主観の記憶もあるけど、大体浮かぶのは、外から見たちいさいわたしの姿だ。想像が生んだ景色かもしれないし、親が撮ってくれたビデオを繰り返し観ていたおかげで染み付いた景色かもしれない。当時のわたしは人と遊ぶとき、楽しんでいた記憶があまりなくて、いつも泣かないように我慢していた気がする。だいじょうぶだよ、と言ってあげたいけれど、彼女はもうわたしの心のなかにしか居ない存在なので、ぎゅっと抱きしめられない代わりに心がきゅっと鳴る。
もともと記憶は得意ではないのだけれど、最近のわたしはとくに忘れっぽい。昨日の記憶と一昨日の記憶の判別が難しい上に、思い出すのに時間がかかるし、あまり細かく鮮明に思い出せなくてすごく遠い日のことのように感じる。これ綴りたいな!と思ったことも、日々に忙殺されて気づいたらするすると抜けている。たくさんの感情を抱えているはずなのに、腕の隙間から溢れ落としながら生きているような気もする。
人の記憶は、いつもは脳の奥底に眠っていて、思い出すとき、眠ったフォルダにアクセスして開くたびにどんどん中身は壊れて劣化していくらしい。
たとえば、わたし、いま愛されているなと感じたとき、その瞬間のこと、大切に大切に鍵の掛かった小箱に仕舞い込んで、絶対に人目につかないような引き出しの奥深くに隠してしまうこどもだった。そのうち自分もその箱を目にすることがなくなって、箱の存在ごと忘れてしまって、愛されていた記憶がすっぽりぜんぶなくなっていたんじゃないかなと思う。外に出したまま壊れないように、汚れないように、仕舞っておいて、取り出さずに綺麗なまま、閉じ込めておく。自分のお気に入りのおもちゃや、ぬいぐるみやものも、そうやって隠してきたんじゃないかと思う。誰かに見つかったら、知らないうちに捨てられてしまう気がした。ずっと考えている自分の性格、好きなものをなかなか好きだと言えないのは、わたしのたからばこの居場所を教えたくないだけかも。
もしかしたらわたしが死んだあと、愛されていた証をそこら中に隠しているせいで誰にも愛されなかった人みたいに思われるんじゃないかなと考えてしまった。せめてわたしだけは、死ぬ瞬間まで愛されていた記憶を忘れないようにしなくちゃ。しなさい。人に感謝するため!
カメラはいいな。わたしがすぐに忘れてしまうものを、ぜんぶ代わりに憶えておいてくれる。残した景色を見るたびに、その瞬間の感情を思い出す。ちいさなタイムカプセル。以前は写真があんまり好きじゃなかったけど、生きるのがしんどくなったとき、苦しさを忘れた瞬間を残す方法が写真だった。だから、憶えておきたいと思ったものは、なんでも撮ってしまう癖がいまもある。もうスマホもパソコンも写真と動画で容量がパンクしそうだ。でもどれも消せない。見返すたびに、わたしの人生でのできごとを、初めて体験してるような気持ちになる。
ずっと、写真も映像も好きかどうかよくわかっていなかったのだけど、好きだからやっているというよりも、たとえば誰かにとっての杖のように、わたしがまっすぐ歩くための必需品なんだろうな、という気がした。二度と見れないわたしの視界、記憶の中だけに閉じ込めてしまったら思い出して頭のなかで景色を視るたびにどんどん崩れて、脆く曖昧になっていく。わたしの人生に起きたことが、記憶だけの存在になってしまったら、そのときの感情だけじゃなくて、そのできごとすらまるごと忘れてしまうから、時間が経っても壊れない像を保ち続けてくれる写真は、過去の道しるべなんだ。ヘンゼルとグレーテルが、帰り道を迷わないためにパンくずを落として森を歩いたように、わたしも後ろがどこかわかるように、来た道を振り返られるように写真を撮っているのかもしれない。過去のわたしと繋いでいる手を離さないようにするため。
幼少期と学生時代の悲しい思い出、あれだけ思い出すのもいやで苦しかった記憶、写真もなにも残っていないから、わたしの頭の中だけにあったもの、どんどん朧気になっていって、いまは思い出してもなんにも痛くなくなっちゃった。わたしの創作の根源が消えてしまったような気がした。
痛みを昇華するための創作が、自分の望む世界を現実のものにするための創作に変化したというだけのことなのだけど。
悲しくて辛い記憶が、全身に刺さって痛くてたまらないときが、きっと誰にも訪れるだろう。いつかのわたしは、そんなものはやく忘れてしまいたいと願っていたけれど、「記憶」というものが思い出すたびに壊れていくものなら、何度でも思い出して、再起不能なくらいにぼろぼろにしてしまえばいいんだ。もしくは壊れる寸前、苦いものが美化されたときに、それ以上壊すのはやめて、大切なたからものとして箱に仕舞っておくのもいいかもしれない。きっとわたしの幼少期の記憶はそういうものだ。人生の途中、歩き疲れたときに小箱から取り出して数回眺めるくらいなら、鼻先がつんとなるくらいのちょうど良いスパイスになる。
毎日、たくさんカメラを回してしまうのは、いまのわたしには忘れたくない景色がたくさんあるということなんだろうな、と思って、すこし嬉しい。厳選された誰かに見せる写真の裏には誰にも見せないでいる写真のほうが何十倍、何百倍と数があって、本当に大切なものほど人に簡単に見せられなかったりする。たまには見せびらかしたい気持ちにもなるけど、好きなものを好きと言うのも、言わないのも、どちらも愛してる故だと思うから、わたしはわたしの愛し方で、大切にとっておきたいたからものをひっそり愛でていよう。
ノートに日記を綴るようにというよりも、メモに気に入った言葉を書き留めるかのように、写真を撮っていたい。