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ヘイトを叫べ
なにかに感動したり、ときめいたりすることがめっきり減った。
以前はどんなものにも心の底から共感したり、自分自身に備わっていないものであれば解ろうと近づいたり、音叉のように心を震わせたり、そうやって好奇心の赴くまま、ひとの心や、それらから生まれたものたちに触れたりしていたのに。
今はもうなにかを見たり聞いたりしてもへえーすごいねという感じだ。もしかして、ちょっとは五感が肥えたせいかもしれない。
一通り自分の姿を着替えてどんなふうになるか知ったから、なってみたい自分が減った分、服を手放した。レースのドレスと、黒革があればいい。香水を片っ端から試香して、どれもいいな〜と悩むことも減った。薔薇とお香がわたしの香りになった。そしたら、花を選ぶときもいつも薔薇を一輪、部屋に迎えるようになった。未知の音楽を発掘するためにネットサーフィンすることも減った。大好きな紅茶ですら、感激する茶葉に出会えることなんて、100種飲んでやっとひとつあるかどうかだ。舞い上がるようなときめきが少なくなって人生つまんなーい。
でも、逆に言えば、こんな状態になっちゃった今でもときめくものは本当にこれから先もずっと好きなものなのかもしれない。わたしの魂の奥底から叫んでる好きなのかもしれない!
好きってなんだろうか。
わたし、いつも「好き」に対して捻くれ拗らせた文章ばかり書いてるのだけれど、本当はもともとなんにでも好きー!って言っちゃう人間だった。恥ずかしいから秘密にしていたけれど。秘密抱えてるとなにも書けないから言っちゃうねもう
誰かになにかおすすめされたら、「なにこれ好きー!」とすぐに言っちゃうし、学校で友だちとすれちがったら挨拶がわりに「愛してるー!」って叫んでばかりいた。そしてなにかを嫌うことも嫌いだった。自分が受け入れられないものがこの世にあることが許せなかった。世界中にあるもの、ぜんぶ飲み込んでやりたかった。だからきっと、簡単に影響された。適当に言ってるつもりはなくて、そのときは本当に本気で言っていたけれど、今思えばなんと浅い好きだったんだろうと思う。自分のことがよくわかっていなかった、というより、やっぱり本当はなにもあまり好きじゃなかった。だって自分の好きと他人の好きの境界線がないんだもの。
屈託なく好きと言えたあのときの自分が恥ずかしいと同時に、素直さが眩しい。いつ何処でも何にでも染まれるくらい、何者でもなかった。
この数年の間になにがあったかは知らないが、今のわたしは好きなものはぜんぜん言わないくせに、きらいなものばっかり言う、頑固なじいさんみたいになってしまった。口調もきついので、正直周りの人からしたらこわいと思う。「なにこいつ?調子乗ってんのか」「なめてんな」「きらーい」
ちくちく言葉のオンパレードをみなさまのやわいお心にお届けしてしまってすみません
ちょっと前のわたしがなんでも受容して染まってしまう人間だったとするのなら、今はなんでも突っぱねる人間になってしまった。
しかし、いくら屈強なバリアを張った頑固じじいのような心をもっても、自分の中にすーっと入ってきて、いとも容易く彩りを与えるものもあるし、やはり降伏してしまうくらいの隕石のような衝撃の好きで殴られることもある。嫌いばっかり言ってても、本当の好きは消えないのだ。ときめいたり感動することが減った理由は、わたしが超絶懐疑的ネガティブ思考人間になったから、ということではないと思う。
嫌いって、あんまり気持ち良いものじゃないかもしれないけど、わたしは嫌いとか、嫌だという感情を否定したくないなと思う。むしろ、好きよりもアンテナを張っていたい。なにか最悪なことが起きるときって、後から振り返って考えると大抵どこかのタイミングで心に芽生えた小さな違和感や嫌悪、不快を見て見ぬふりしているときで、それが引き金になっていたりする。
嫌いなものを嫌いと口に出すようになってから、しんどい思いすることがだいぶ減った気がする。わたしを不快にさせるおめえなんか嫌いだよ、こっち来んな!と思いながらガン飛ばしてると本当に来ない。たまにやむを得ず戦うことにはなるが。
好きな気持ちってすごく大切にされるのに、嫌いな気持ちって全然大切にされないどころかむしろその気持ちがあることを明け透けにしていたら大抵周りから疎まれる。嫌いなものがあったら、わたし、自分の思いつく限りの悪口ぜんぶを使って呪いを唱えたいくらいなのに。
嫌い、は好きよりも明確だ。好きかも〜となんとなくぽわっと浮かぶことはあるけれど、嫌いはくっきりと影を落とす。嫌いは好きよりも本能に近い反応なんじゃないかと思う。「理性を働かせて好きになろうとする努力」はできるかもしれないけど、「理性で嫌いになる」というのはなかなか無理だなと思う。
それに、嫌いが生み出す力は大きい。だってそもそも、自分の活動のエネルギーも傾倒的資本主義に対するアンチからきているし、その根っこには地球への愛があるし、歴史を振り返ってみても人間の所業なんて大概案外そんなものなんじゃなかろうかとも思う。あなたの好きなものも、もしかしたら誰かの、なにかを否定する気持ちから生まれたのかもしれないし。
否定は良くない。ってよく言うけど、なぜ良くないのかはあまり語られない。しかも、「否定」は「良くない」って、否定を否定しているやないかい。ことあるごとに「否定をするな」と言う人を見かけるたび、おまえは本気で否定と向き合ったことがあるのかと、否定的な気持ちになる。たとえば、肯定をすることで自分の人生が彩られるのならば、否定こそが自分の輪郭を形づくるものだと思う。同族嫌悪という言葉がある通り、似てるからこそ嫌いになるというけれど、嫌いだ!と反応することは自分と他人を分離する作業であり、また「こうはなりたくない」にいちばん近い感情の現れでもある気がする。例えば、あまりにも自分と似てるひとと近くにいると自分のアイデンティティを見失い、自分がなんなのかわからなくなるし、一緒に居て自分の思考を乱す人間が近づいてくるときや、汚いものを触るとき。
嫌いな人間が精神的に近い距離にあると思考や性格が寄ってしまうし、嫌いなものが物理的に近い距離にあると匂いとか粒子レベルで物質が身体につく。嫌い!と叫ぶことは、わたしはこれには染まらない!と宣言することと同義だし、それは自己と他の線引きである。嫌いなものからはさっさと離れなさい
好き、をたくさん言えていた時期は自分と世界の境界線をぼやかして、いろんなものを自分のなかに取り入れていたんじゃないかなあと思う。分野やジャンルなんて関わらず、魂の煌めきを感じるもの、すべてに拍手をして自分のこころに迎え入れていた。今思えばあのときのわたしは生きているかも死んでるかもわからず生きていた。たぶん、自分の世界にほとんど自分が居なかったからだと思う。自分の視界に入ったものが世界であって、自分は決して世界には参加していなかった。わたしがわたし自身に輪郭を引いてあげないと、誰にもなれずずっと自分を見失ったままだ。
地獄にしか思えないような世界でも、地に足裏べったりつけてこの現実で生きると決意したおそらく二年前から、夢見心地で宙に浮いたまま息を吐くような時間がゆっくり終わって、わたしを育てた横浜の街と家と別れを告げ、そして親元を離れた。そういや反抗期っていうのは、親に対する嫌悪を感じ始める時期だと思うけれど、あれはきっと血縁というどうしたって変えられない繋がりに抗って、自分を親から分離した存在にするためにエンジンをかけているのではないかと思う。遺伝子半分って、傍にいたら親の影響の強さに引きずられるに決まっている。たとえ親が近くにいない人生だったとしても、親の不在という宿命自体に子が影響されないことはきっとない。
嫌いはなにも誰か特定の人間を攻撃するためだけにあるわけじゃない。好きが絵具と筆ならば、嫌いは自分の輪郭を見出す鉛筆だと思う。絵を描くときだって、色をのせる前に鉛筆から形をとり始めるでしょう。
こんなだだっ広い世界で好きなものを見つけるのはとても難しい、さらにそこから自分に似合うものや向いているものを探すなんて海で欠けのない貝殻を見つけるより難しい。だから、自分の嫌いなもの、なりたくないものをまずは心にゆだねて叫べばいいと思う。嫌いを宣言することは、選択肢をはじく強さをもつこと。決断するというのは、なにかを選ぶことではなく退路を断つということだ。
こんなふうに、いろいろと自分自身がなにかを探ってみたが、試行錯誤繰り返していても、いまだにわたしはなりたい自分が見定まらないしずっと迷い続けたままだ。
けど、嫌いなものを口に出してばかりいたらあとから好きなものもすこしずつわかるようになった。薔薇と拳銃が似合うわたしになりたい。青い瞳に漆黒のアイライン、それから目の下の赤いハート。お城よりも教会の屋根裏のような部屋で暮らしたい。アンティークドレスを纏ってクラシックをかけてお茶会をするし、全身真っ黒に身を包んで紅を引いて、テクノが流れるクラブで踊り明かしもしたい。白と水色も、黒と赤も着こなしたい。
どんな色も混ぜればいいってものじゃない。たくさんの色を取り込めば最後はぜんぶ白か黒になる。そのあいだの、繊細なグラデーションのなかでわたしだけの色を見つけるためには、絶えず世界から自分に流れ込み続ける色を堰き止める輪郭をつくらなくちゃならない。自分の嫌いがある程度わかったら、わざわざ口に出す必要もなくなるし、それまでは目を瞑っておくから今は腹から嫌いと叫べ、自分だけの好きを見つけるため。