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絶対に、負けない


あの頃の僕を救ったブログ


昨日久しぶりに、アルゴリズムで流れてきた ブログが目に止まった。それは震災のあと、無力感に苛まれ どうしようもなかった僕を、何度も何度も救ってくれた文章だった。

うちのお寺にも来てもらい、直接会う機会も作った。
彼は、彼の文章の通りの、繊細で不器用で、自分にとても正直な人だった。

つむぎの会


震災が起きた2011年の10月から、ボランティア団体の声かけがあり、震災で子供をなくした親御さんのグループに顔を出すようになった。その会は「つむぎの会」と名付けられ、月1回 同じ境遇の親御さんたちが集まっては 心情を分かち合う場だった。

僕はそこに 僧侶として いわば 話の聞き役として参加することになったのだが、あまりにも辛い 親御さんたちの心情の告白を前に、途方もない無力感に毎回のように苛まれ、行くのが本当に苦しかった。

でも声をかけてもらってる以上行くしかない。役に立たない 上に逃げ出したとなれば本当に僕には身の置き所がなくなってしまう。

役に立たなくても泣いてばかりでもとにかく その場にいることだけは引き受けようと心に決めて通っていたのだった。

矢でも鉄砲でも持って来い


今もいろんな方から悩みの相談を受けることがある。それぞれの苦しみは比べようがないもので、それぞれに抜き差しならないものではある。

僕はその悩みや苦しみを、僕が解決することはできないと思っている。でも もし 悩み苦しむことが一人でだとしたら、伴走するつもりは いつでもある。
一人で悩むよりふたりで悩んだ方が楽に決まってる。

つむぎの会のあの親御さんたちの苦しみを思えば、大概の悩みに伴走することぐらいは 僕にとっては何でもないことだ。

持ち込まれる 悩みは苦しみに打ちひしがれることもあるが、どんなにうちひしがれてもそこに"いる"ことは放棄しない。そう決めているから、安心して打ちひしがれるのだ。
だから矢でも鉄砲でも持って来い、そんなつもりでいる。

Ups and downs


Life is ups and downs,と、英語では言うそう。誰もがアップしたりダウンしたりに悩み苦しむのが人生だとすれば誰もがそれを引き受けていくしかない。

でもひとりじゃない。

どんな悩みや苦しみを持ってこられても、心が折れても矢が尽きてもそこに立っている。だから負けたって、負けないのだ。
そんな僧侶でありたい。

サポート、お願いはしませんが、喜んでお受けします。文章を書くことは私にとっての”托鉢”修行といえるかもしれません。