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るっくばっく(仮)
高校時代の担任は軍人教官のように厳しい人間だった。特にそのもの言いは遠慮がなく、腑抜けた態度を取る者がいれば、例え女子であろうと容赦はしなかった。
別名、「能面」
物怪のような異名を持つ先生と面と向き合うには相応の覚悟と勇気が要った。
初めて、その姿を目の当たりにしたのは入学してまだ間もない頃のことだ。全校集会の壇上で立ち構えていたのは、柳のような静けさをたずさえた男だった。
「己を知り、身の丈を知り、将来のことを考える時期である。それすらまともに考えんで、へらへらと学校に来るような馬鹿は、到底、この先、社会の役立たずだと思え」
仰天した。高校の生活指導主任とはこうも暴力的なものなのか、はたまた、高等教育というものの洗礼だろうか。道端で突然、銃口を向けられたかのような衝撃、異国のカルチャーショックにも似た気分だった。恐ろしすぎる。前職は地上げ屋だったに違いない。本気でそんなことを思って足がすくんだ。
職員室で、渡り廊下で、放課後の視聴覚室で、度々、生徒を叱責する先生を目撃した。下を向く者。涙目になる者。歯を食いしばる者。先生は決して声を荒げない。呼び名の通り、能面の敦盛がお経を唱えるかのようにして、じりじりと相手を追い詰める。それが先生のやり方だった。想像してみて欲しい。白面のその奥の目だけがギロリと動き、呪詛を呟く光景を。存在そのものが恐ろしかったけれど、地の底から立ち上がるかのような、あの低い唸り声は聞く者の心を更に不安にさせたに違いない。
無論、例外なく自分もその者のうちの一人であった。
クラスの担任となってからは、ますます生きた心地がしなかった。
行き過ぎた言葉の暴力が原因で騒ぎに発展したこともある。
スポーツ推薦を膝の怪我で取り消された女子生徒に対し、あろうことか「実らなかった努力を美化するな」とまで吐き捨てたのだ。
さすがにこのときばかりは教室は荒れた。
「先生にわたしの何がわかるって言うんだ」
彼女の青春の血潮を守ろうとクラスが立ち上がった。
謝罪や撤回を要求する者、非難する者。普段は温厚な男子生徒が先頭に立って声を張り上げている。その姿はまるで学生運動のリーダーのようであった。勢いそのままに教室の窓硝子を叩き割りそうだ。その場の誰もが当事者であり、彼女の代弁者だった。これ以上、好き勝手言わせてたまるか。ここぞとばかりに、各々が躍起となって主張の飛礫を先生に投げつけた。
けれども、先生の能面が崩れることはなかった。
白面は唸った。
「ぬかせ」
「犬のフンが」
「黙れ」でなく「ぬかせ」
生徒たちを「犬の糞」と言い切った。
沸騰寸前の今にも鍋のふたが弾け飛びそうなその鬼気に、教室は一瞬で静まり返った。
洒落にならない。その凄みは、ゆうに恫喝の域を超えていた。威勢の良かったリーダーは途端に手のひらを返すかのように、背中を丸め、ちょこんとそこに座り直した。「地上げ屋」説は本当だった。自分たちが目の前にしているのは、真に相手にしてはならない本物のアウトレイジだったのだ。その背広の内ポケットに何を忍ばせているか、わかっちゃもんじゃない。
反乱は先生のたったひと言によって鎮圧させられた。思い知らされた。漏らしそうになるほど恐ろしかった。
挫折も敗北も、葛藤も、先生という人間の前では噛み締めることを許されないのだ。
それから程なくして、女子生徒は部活を辞めた。彼女はやがて、一般入試で福祉系の大学を受験した。
心変わりだろうか。真相はわからない。ただ、どのような形であれ、彼女に引導を渡したのは、それは他ならぬ先生だったのかもしれない。
その素顔こそが、実は能面なのだと思っていた。ところが、自分は意外な形で先生のまた別の一面を知ることとなる。
それは、放送部が主催する校内のエッセイコンテストに応募したことがきっかけだった。
エッセイと言っても、特に形にこだわりはなかった。「生身の自分」というテーマに沿って思うことを好きに書けばよかったのだ。自分は「羽ばたきたかった」というタイトルで、少年時代から続く切実な悩みをそこに綴った。
幼少の頃から吃音を煩い、言葉を上手く交わせず、人と関わりを持つことが苦手だった。緊張し、言葉に詰まり、たいそう醜い姿をさらしていると思うと更に赤面し、周囲の人間に笑われた。誰のことも嫌いではない。それなのに人の輪に入るとどうしようもなく恐ろしくなる。友人と呼べるような親しい人もおらず、臆病で、周囲の顔色ばかりを伺う心の弱い人間へと成長した。
自信を持って人と接したい。思春期にありがちな平凡な悩みが、自分にとってはどんな病よりも重く深刻な問題だった。
読まれることを前提に書いた訳ではなかった。言葉では言い表せなかった思いを、この場を借りて書き記したい。書き始めたら止まらなかった。人より劣る自分に絶望していたこと。自分の望む姿とはまるっきり正反対の存在にしかなれなかったこと。片道五十分の道のりを、雨の日も風の日も、毎朝、祈りにも似た思いで自転車を漕いでいた。
「羽ばたきたかった」
そのタイトルに自分の全てが詰まっている。挫折も敗北も、葛藤も、自分の人生は踠きの渦の中にあったのだ。
暗い内容だったし、却って、嘘っぽいと思われたかもしれない。むしろ、それでよかった。ひっそりと直ぐにでも返して欲しかった。それなのに。なんと、あらぬことに先生の手に渡されていたのだ。進路面談の場でその事実を知らされたときはショックのあまり半分白目を剥いて気絶しそうになった。
迂闊だった。先生が担任であること。検閲官のような気持ちで、受け持つ生徒の書いた作品に目を通したことだろう。無防備に秘密を覗かれた恥ずかしさより、不安の気持ちの方がはるかに勝った。書きたい衝動に取り憑かれていて、こうなることなど、まるで考えもしていなかったのだ。最悪だ。
その目を見れば、だいたいどんなことになろうか想像がつく。「お前を喰ってやろうか」担任が人喰い人種に見える。生きて帰れるはずがない。この期に及んで書いたことを後悔した。もとより二人きり。覚悟を決めるしかない。
ところが、先生の口からは思いもよらぬ一言が飛び出した。
「理解されたければ、まずは理解しろ」
口から出たのは、金八先生を体現したかのような一節だった。そしてそれこそが、先生が初めて見せる教育者としての本文の一片だった。
先生は戦慄のアウトレイジなんかではなかったのだ。
そのときのことは今でもはっきりと覚えている。何度書き直したであろう無数の消しゴム跡の残る原稿用紙。そこに込められた思いを先生は汲み取ってくれた。そして、飾り立てのない真っ直ぐな言葉で応えてもくれた。
「お前に強く生きることはできない。だが、それで良い。お前にしか成せないことがあるはずだ。だから理解されなくとも、お前だけは理解しようとしろ。理解し続けろ。閉ざすな。そして、その意味を考え続けろ」
沁みた。先生の言わんとすることが自分には何となくだけれどもわかったような気がした。
これまで、能面の目がギロリと動く度に恐れを成してきた。同様にその目はまた、いつだって真に迫る真剣なものだった。模範と呼べるような存在ではなかったけれど、先生は紛れもない「教師」であったのだ。恐怖に埋もれたその中の一筋を、自分は見たような気がした。
寄り道を経て、主人のもとへと戻った若気の記録。書き終わりの余白には赤字で太く、一言「踠け」と記されてあった。
その後、面談を重ね、自分は大学へ進学する道を選択した。困難な道であることは承知している。けれども、できないことや残された方法ばかりを探るより「どうしたいのか」自分の中にあるそんな気持ちを優先させたいと思った。先生に心を動かされ、また、少しずつ自分も変わり始めようとしていたのだ。
職員室に行き進路希望を提出する際、何と言うか、一言お礼が言いたくて感謝の気持ちを伝えたが、却って普段と変わらぬ様子で叱られた。
「大変なのはこれからだ。大馬鹿者めが」
地を轟かせる先生の声はやはり恐ろしい。久々に腹の底から「はっぁいっ」と声を上げて返事をした。能面は増して衰え知らずだ。
雪が溶け、その年も鮮やかな華味に恵まれ、盛大な染井吉野が立ち並んだ。自分は卒業の日を迎えた。
最後の挨拶をしようと校庭に出たときだ。グラウンドの片隅に二人の人影を発見した。一人はバスケットゴールの影に隠れて確認できなかったが、もう一人は頭髪にテカテカのポマードを塗りたくった先生であった。その日の彼は一味も二味も違った。教師としての鎧を脱ぎ捨てた束の間、先生はこれまでに見たこともない弛んだ表情でその場に打ち解けていた。
「お礼参り」が気になって、もしや、と思って心配していたのだが、どうやらその必要はなさそうだ。能面は既にひょっとこである。内ポケットに忍ばせるはもう、アメ玉くらいのものだろう。
先生の傍らにいたのは「スポーツ推薦事件」で対立した、あの女子生徒だった。何やら彼女まで楽しそうにしている。短かった髪はすっかり肩まで伸びていた。遺恨を残した二人だったけれど、どうやらそのわだかまりもさっぱり解けたようだ。
実は、騒動には、続きがあった。
皆を黙らせた後、先生が彼女に向けて言い伝えた言葉がある。
「お前の努力は正しかった。誰が何と言おうと正しいものだった」
「だが」
「だがな」
「それだけだったんだ」
励ましや同情で彼女の膝が治ればそれで良かった。あのとき彼女が必要としていたものは、そんな寄り合いの信仰にも似た力だったのだろうか。苦しみの底に突き落とされてこそ見えたものがあったのではないだろうか。先生が発した冬の二月の朝焼けのようなメッセージを、いつしか彼女は理解し受け止めたのだろう。
恩師と呼べる存在に出会えたのだろう。だからきっと、あんな顔をするんだろうな。
微笑ましい光景だった。二人はまるで、バス停に並ぶ親子のようである。近すぎず、でも遠すぎず、卒業という日にふさわしいものだった。良かった。うん、実に良かった。
結局、自分も彼女も、先生に導かれた。
職員室に初めて呼び出された日。あのとき先生の顔すらまともに見ることができなかった自分に伝えてあげたい。「あの人が恩師だ」と。
大丈夫、やり直せる。きっとやり直せる。
これまでになく清々しい気持ちで、そうして自分は校舎を後にした。
高校を卒業してからも先生との交流は細々と続いた。季節の便りを通じ、近況や心境をそこに綴った。他愛もない挨拶程度のつもりでいたのだが、そのうちに便箋はぎゅうぎゅうに文字で埋め尽くされていた。大学を辞めてしまったこと。一人暮らしを始めたこと。先生のような恩人と呼べる存在に出会ったこと。吃音症を克服したこと。遠く離れた地で暮らす両親にでも手紙を書いている気持ちだった。
一方で、先生の書く言葉は月日を追うごとに丸みを帯びたものとなった。教師としてのインパクトがあまりにも強かったせいか、そこに描かれる先生は、能面でも軍人でもない、よくいる優しい「近所のおじさん」だった。
先生と再会したのは二十代半ばの頃だ。
東北の学校へ赴任が決まったと言うので、その前に折を見て先生のもとを訪ねた。倍賞美津子似の面倒見の良い奥さんと共に、甲斐甲斐しく出迎えてくれた。
先生の身体は一回りも二回りも小さくなっていた。白髪の線の入ったオールバックは後退し、頬は少し痩け、そのうえ、肌艶もよくない。「学校、大変なのですか」堪えきれずに訊いてしまいそうになる。白面のまじないが切れかかっているのか、それとも、自分のような教え子を相手にして疲弊してしまったのか。文面では語られることのなかった、教職員としての苦労がありありと刻まれていた。先生も懸命に教師を続けていたのだ。
普段、お酒を呑まない先生に折角だから乾杯しようと誘われた。奥さんに正座を解かれ、鮨をつまみながら一緒に晩酌をした。
高校時代の自分にこんな未来が想像できただろうか。長らく耳にしていなかったその「声」に、不意に懐かしささえ込み上げる。酒に酔った先生は饒舌だった。よく笑っていた。教師について語る先生はとてもいい顔をしていた。
「遠い所だが、時間が出来たら、また、来るといい」
同じ気持ちだった。
形は全然違うけれど、教師と教え子の関係に戻れたような気がする。
このような関係がこの先もずっと続いて欲しい。そう願っていたけれど、それから数年後、先生は定年を待たずして教師を辞めた。
届いた一通の手紙に目を通したとき、とめどなく涙が溢れた。
「どうやら、もう、教師が恐れられる時代ではなくなったようだ」
最後は感謝の言葉で締め括られていた。
「これまで頼ってくれてありがとう」
翌年、先生は東北の地を離れた。息子夫婦の暮らす和歌山へと移り住み、そこに落ち着いた。暫くやりとりは続いたが、特にこれと言った理由もないまま、返信の期間も空いた。春の足音も、秋の訪れも、日の傾きに気付かぬままいつの間に夜を迎えていたかのように、どちらともなく、お互いに忘れてしまった。
交流は、ひっそりと途絶えることとなった。
三十代に入り、生活は目まぐるしく変化したが、時折、無性に駆られて、机の中から先生の「お守り」を引っ張り出した。荒々しさの際立つ、赤字の「踠け」を眺め、僅かばかり感慨に耽った。けれど途端に後ろめたさのようなものを感じてそっと引き出しに戻した。はたして自分はそれに恥じない、正しい生き方をしているだろうか。その度、自分の胸に問うていた。
あれから、もう随分と経つ。先生は元気でやっているだろうか。
巡り廻って、こうして今、自分は高校生の自分をなぞるようにして、そのときの経験をここに記している。そして、これまでの踠きの人生を何遍かに渡って綴っている。書くことは苦しいし、とても難しい。変わらず暗く、重い内容だし、人によっては「辛気臭い」と思うだろう。中には「息が詰まる」と読み捨てた人もいるかもしれない。それでも、細々と書いていたい。
人生の半ばにして「書く」というものに出会った。そこで、恥も外聞もかなぐり捨てて自分をさらけ出している。日の出と共に起床し、机の前に座し、自分と向き合っている。霜柱の立つグラウンドに足音を響かせる朝練のように、毎日コツコツ自分は励んでいる。礎を作ってくれたのが先生の言葉だった。
素朴の中に力強いものを伝えらたら、そうして、いつかどこかで先生に読んでもらえたら。挫けそうなときは、そんなことを考えながら筆を握った。先生はどのような感想をくれるだろうか。
昨年の十二月。年の瀬の澄んだ気持ちのよい朝だった。そんな折、自分は郵便受けの中に思わぬものを発見する。
先生からの手紙である。
六、七年ほど前に一度、新しい住所と連絡先を便りにして出したが返事は来なかった。すっかり、もう忘れ去られたものとばかり思っていた。実に十数年ぶりだった。
あまりにも突然のことに、思わずに、封を切るハサミが震えていたのを覚えている。中身を開くと、そこにはなんとも懐かしく慣れ親しんだ文字が広がった。奥さんと一緒に趣味で畑を始めたことや、お孫さんが吹奏楽の大会で賞をもらったことなど、微笑ましいエピソードが散りばめられていた。やたら妙に嬉しい気持ちにさせられたが、しかしやがて、途端に胸は苦しくなった。
東北の大震災。
和歌山に移り住んだ後に起きたその地震で、先生は教え子をたちを失った。その事実をそのとき初めて自分は知った。
先生は幾度となく被災地へと向い、その度に教え子たちのもとを訪ねたという。教師ではなくなったけれど、助けになりたい。学校や生徒の為にやれることを尽くした。
先生に「肩書き」なんてものは必要なかったのだ。
読み進めていると、途中、ところどころにインクの滲んだ痕があった。そこを手で擦ったのだろう。文字がふやけて破れかけていた。先生がどんな気持ちでそれを書いたのか、容易に察しがついた。胸が詰まって仕方なかっただろう。だから書き直せなかったのだろう。行き場のない思いを、絞り出すようにしてそこに記しつけたに違いなかった。
先生は教職に生き、そして、教職に敗れた。けれど、誰より「教師」であり続けようとした。高校時代の能面の下に見せたその優しさは、あの頃のままだったのだ。きっと、何一つ変わることはないのだと思った。
どうしてやり取りを続けられなかったのだろう。そのことを心の底から悔やんだ。断絶させた原因は自分にある。教師ではなくなった先生に掛ける言葉が見当たらなかったからだ。敢えて気丈に振る舞おうとしているのもわかった。教師を辞めたって「先生」であることに変わりはないはずなのに、書くことが余計に辛かった。そんな教え子の心情を先生はきっと承知していたのだろう。
先生の言った通り、自分は人より強く生きてゆくことができなかった。それでも先生の中にあるその変わらない強さを、僅かでいい、自分もいつか手に入れることができるだろうか。
教えて欲しかった。
「コロナやら大雨やら、戦争やら。なんと言えばよいのか。私はこれほどにもなく脆い人間になってしまったようです。これ以上、ますます、老いて自分が何も出来ないと思うと堪らなく恐ろしい。能面なんて呼ばれていたことを聞かされたときは、思わず笑ってしまいましたが、あの頃に、できることならば、あの頃にまた戻りたい」
「ふと、あなたの顔が、また見たくなりました。今も精一杯、生きていますか。変わらず、これからもそうしてください」
それが、先生からの最期の手紙だった。それから数週間後、先生は亡くなった。能登で地震が起こりしばらくしてのこと。死因は急性アルコール中毒だった。
先生が三人目だった。
親しい人間が立て続けに、突然、この世を去った。
知らせを受けたのは、近所のスーパーに買い物に出ているときだった。自分が流したのは涙ではなく、「げろ」だった。公衆の面前で床にげろを吐きこぼした。
里芋を一つだけ、買って帰るはずだった。
売り場を汚し、理由も言えぬまま、自分は後ほどそこの店長に白い目を向けられた。
それから自分は「書く」ことをやめた。
夏の終わりになり、和歌山を訪ねた。花を買い、未完の原稿用紙を携え、そして、ようやくとそこで、自分は先生の前で手を合わすことができた。
気持ちの整理がつかぬまま、何も出来ずに中途半端に過ごしてきた。ありきたりだけど、このままではいけないと思った。いつまでも、くよくよしていられる年齢ではない。それこそ、先生に叱られるだろう。前を向いて行かなければ。そして、心が追いついた。
仏壇に飾られた写真には現役時代のまっ盛りの頃の先生が写し出されていた。結婚式を前に新郎家族の前で無理やり笑顔を作らされた花嫁の父親のような顔をしている。ぎこちなさすぎる。他にもっといい写真は無かったのだろうか。そう思ったけれど、やはりその頃の先生が一番輝いていたのだろう。
奥さんは病気で身体を少し、悪くしてしまったが、それでもまだまだ元気そうだった。真っ赤なTシャツを着て、何かお祝いごとでもするかのように自分を迎入れてくれた。
献杯をし、そして二人で先生を偲んだ。
「先生はとても心の強いひとでした」
「あら?ふふふ、そうかしら」
「えっ、はい、それはもう」
「でもね」
「はい?」
「それはあなたの方なのよ」
「ええっ、いや、どういう、そんなこと……」
「あの人が、そう言ってたのよ」
忘れもしない。それは、進路希望の面談用紙を渡しに職員室に向かった日のことだ。
不意に先生に「お前は誰のことも憎くはないのか」と、訊かれた。
実の父に見放されたこと。そうして、母とも生活を別ったこと。先生はそのことを知っていた。知ったうえでの問いだった。
憎くはなかった。それより自分は。
「だだっ、誰かに、みみっ、みっ、うぁぁ」
「認められたいっっ」
「……です」
認められたい。
醜く、そう答えた。
先生は一言「そうか」とだけ言った。
その日の晩、先生はそのことを奥さんに話したそうだ。「強さとはなんだろうな。どうやら私は勘違いをしていたようだ」と嬉しそうに伝えたという。「今度、しっかりあいつに謝らないとな」そう言って先生は笑った。珍しくお酒が飲みたいなんて言い出したので、奥さんは何か特別な日のことのように、そのときのことを覚えていたのだそうだ。
「弱さを知るあなたは強い。あの人の言葉よ」
それは、本当に最後、先生が自分に残してくれたメッセージだった気がする。
ずっと張り詰めていた。
それまで、一度も涙が出てこなかった。悲しんだら最後、もう、踏ん張りが効かないと思っていたから。自分は大丈夫、大丈夫だと言い聞かせてきた。今日の誓いも明日には反故にして、そうやってここに来ることを先延ばしに避けて通ってきた。
先生。
あれだけ強かったあなたも、生きることは悲しかったですか。
信じる言葉はありませんでしたか。
自分は先生が思うような人間ではないのかもしれないけれど、それでも、せめて少しでも、その言葉に恥じないよう生きてゆきたい。
自分は生涯、あなたの教え子です。
奥さんに背中を摩られ、その日、初めて自分は先生の前で泣いた。風鈴の音が聞こえた。陽炎の立ち昇る、まだまだ日差しの強い夏の日の午後のことであった。
帰る頃には、仕事を終えた息子さんが駆けつけてくれた。そのうえ親切にも、車で駅まで送り届けてくれた。
「次来た時はもっとゆっくりしていってください。地酒の美味しい店、連れて行きますんで」
歳もさほど変わらなく、彼とは直ぐに打ち解けることができた。どことなく先生の面影を残している。それが嬉しかった。
ホームで元気そうに手を振る親子に見送られ、そうして列車は駅を発った。
窓の外は夕陽が照らす海岸沿いがどこまでも延びている。行きの列車では気にも留めなかった光景だ。自分はこんなにも美しい地にやって来ていたのだ。夕暮れを焼き付ける黄金色の水面が、水平線を抜けるようにどこまでも輝いていた。
それから再び、自分は書き始めた。
苦しいものばかりを書いている。その苦しみに思いを寄せてくれる人たちがいた。そこには思いもしない世界が広がっていた。自分にとって、書くことと人生は繋がっているのかもしれない。全然上手く書けないし、無闇に落ち込んでばかりいるけれど、こんな自分だからこそ伝えられる言葉があると信じている。作家でもない。名乗れるような才能もない。自分が書かないことで困る人はいない。それでも、今は書きたい気持ちに溢れている。
「お前にしか成せないことがあるはずだ」
先生のその言葉に、突き動かされている。
高校時代のあのときと同じように、願わくば、再び、書くことに取り憑かれたい。
死の嵐に呑み込まれ、失意の淵の上に立たされた。時代の残酷な一面にも晒された。何度、眠れぬ夜を過ごした。それでも朝はやって来るのだ。
人はどう死んだかではなく、どう生きたか。そんな当たり前のことを、今は、胸に強く思う。そもそも、自分の人生は後悔であふれている。それでも今はただ、成せることを、成したい。水溜まりを前に、立ち止まっていた頃の自分はもういない。
人より上手くゆかない人生を呪ってばかりの頃もあったけれど、今は精一杯、胸を張って受け入れられたら、それで幸せだ。
「迷わず行けよ、行けばわかるさ」
天国のアントニオ猪木にご唱和して頂きたい。
ここにその記録を、綴る。