なぜバッハとブルックナーは特別なのか-私のクラシック音楽遍歴
聖地巡礼するほど好きな作曲家というのは、そうそういるものではない。ちなみに私にとってのそれは、バッハとブルックナーである。
バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)は言わずと知れたドイツ東部で活躍したバロック時代の音楽家であり、ブルックナー(Joseph Anton Bruckner, 1824-1896)はウィーンで活躍した後期ロマン派時代の音楽家である。
1.音楽との出会いと別れ
今でこそガチガチのクラシック音楽ファン(それもドイツ系好みという筋金入りのガチオタク)だが、幼少期は音楽が大嫌いだった。
音楽との初めての出会いがヤマハ音楽教室という人は相当数いると思うのだが、私もそのひとり。わけもわからず連れていかれ、わけもわからず楽しいものだ。
が、私の場合、家に帰って母の指導(当時母はハモンドオルガンを嗜んでいた)のもと、いざ練習となると一転、苦痛で仕方がなかった。
片手練習はまだいい。両手になった途端、ぜんぜん弾けない。まごまごしていると母のビンタが飛んでくる。ただでさえ弾けなくて糞面白くもないのに、それに加えてビンタの嵐である。
たまったもんじゃない、こんなのやってられるか。
こうして小学校に入るよりもかなり前の段階で、私はめでたく「音楽嫌い」になってしまったのである。
2.人生の転機、ヴァイオリンとの出会い
両親はいずれも音楽好きだった。家では小野リサやラテンアメリカの民族音楽がよく流れていた。バブル世代にありがちな、良い意味でお気楽な音楽を好んで聞いていたようである。
当時あれだけのビンタの雨を降らせておいてなんだが、母はどうしても音楽をさせたかったようで、数年たったある日、ヴァイオリンをすすめてきた。
ヴァイオリンはピアノと違って、例の「両手練習」がない。
つまり、ビンタの心配はない。
人生とは不思議なものだ。
私はレッスン初回から、正しくヴァイオリンを構え、正しく弓を持ち、きれいな音を鳴らすことができたのだ。いま考えてもこれは奇跡としか言いようがない。通常、ヴァイオリンは構え方や弓の持ち方だけでも数週間から数か月はかかるものなのである。
先生は驚愕していた。ヴァイオリンは一体どこで何年習っていたのかと問う。何も知らない私が「今日が初めてです。」と答えると先生はもっと驚いた。
こうして私はヴァイオリンと運命的に出会ってしまったのである。
他でもない、母のおかげで。
3.バッハとの出会い
私は毎日ヴァイオリンを練習した。誰に何を言われるでもなく、毎日練習した。どんどん弾けるようになるから楽しくて仕方がなかった。
小学校高学年くらいになるとラジオでクラシック音楽を聞くようになった。中学生になると公立図書館でCDを借りてきて聞くようになった。
ある時、ラジオを聞いていてとても素敵な曲だなと思ってその作曲家を調べてみると、それがバッハであった。さっそく図書館で借りてきて聞いた。ブランデンブルク協奏曲であった。
これこそ、私が生まれて初めてバッハを意識した瞬間だった。
そこからはもう狂ったようにバッハを聞いた。中学校の音楽の授業でバッハ(トッカータとフーガニ短調)をやっていたのもそれに拍車をかけた。
次第にパイプオルガンやチェンバロの響きに強い憧れを抱くようになり、ピアノのレッスンにも通い始め(当時中2)、オルガンやチェンバロを見聞きしたり弾いたりできるチャンスがあれば、中学生で行けるところならどこへでも行った。
4.オーケストラとの出会い
高校にはオーケストラ部があったが、入学当初はあまり興味がなかった。
当時の私はというと、いわゆるクラシックというよりバッハ(やモーツァルト)を中心とする古楽に傾倒していた。18世紀以前の音楽はよく聞いていたが、オーケストラ音楽の中心である19世紀の音楽にあまりなじみがなかった(!)のである。いわゆるクラシックの王道(ロマン派音楽)からではなく、カウンターカルチャー(古楽運動)の側から音楽に入門するというアクロバティックなことをやっていたわけである。
とはいえ青春真っ盛り。誰しも仲間とバンドを組んでライブをやったりしたくなるようなお年頃。
私の場合、それまでヴァイオリンやピアノをいわば「ソロ競技」として、ずっとひとり黙々やっていたわけだから、オーケストラ部の活動を知れば知るほど「仲間と一緒に音楽をしたい!」という気持ちが強くなっていった。
結局、高校二年に上がるときに陸上部(ちなみに小学校高学年のときは陸上クラブに、中学のときは陸上部に所属していた)を辞めてオーケストラ部に入りなおした。
(余談だが、当時のこの転向には、いろいろの面倒事がついてまわり、また周囲にはいろいろの憶測が飛び交っていた。しかもヴァイオリンではなくヴィオラで参加したことで、噂が噂を呼んでいたようにも記憶しているが、この話はまたいずれどこかで。)
オケ部に入ってからは自然とオケの曲ばかり聞くようになった。なかでも交響曲というジャンルに強く惹かれた。ありとあらゆる作曲家の有名な交響曲をとにかく片っ端から聞いていった。ハイドンモーツァルトベートーヴェンシューベルトメンデルスゾーンシューマンブラームスチャイコフスキードヴォルザークマーラーショスタコーヴィチシベリウスオネゲルetc...
5.高校時代のモーニングルーティーン
正直、当時は何を聞いてもいまいちピンと来なかった。もう残されている未開拓領域はブルックナーくらいだった。
しかしとにかく長い。長すぎる。
NHK教育でやっていた「N響アワー」でブルックナーの交響曲第7番を聞いたのが初めてだったが、とにかくダサかった。冗長とはまさにこのことを言うのであろうと思った。ワーグナー風の響きを取り入れた後期ロマン派の交響曲ということは理解できたが、逆に言うとそれ以上のことは何一つ理解できなかった。音楽の展開の仕方があまりにも独特というかもはや意味不明であり、さっぱりわからなかったのである。
唐突にも、ここで高校生時代のモーニングルーティーンを説明しなければならない。
自室のCDコンポは朝6時に自動的に電源が入るようにセッティングされており、設定周波数はもちろんNHK。クラシック系番組の「バロックの森」(旧「あさのバロック」で、今の「古楽の楽しみ」の前身)を聞きながら目覚めるようになっていた。我ながらちょっと(?)変わった高校生だった。
しかし、当時のCDコンポである。だんだん内部時計がズレてくる。設定時刻よりも前の時間帯から電源が入るようになる。そうすると、その前の時間帯の番組である「名曲の小箱」(これもクラシック系番組)で目覚めるようになる。あるときは「美しく青きドナウ」が、またあるときは「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れた。
ある朝、三拍子のオーケストラ曲の爆音で目が覚めた。なんともいえないダサさがあった。ム、これは・・・。例のブルックナーの交響曲第7番のスケルツォ楽章ではないか。
当時、名曲の小箱は、一定期間(たとえば一か月間)内に放送される曲目数が極めて少なかった。せいぜい数曲といったところで、毎日のように同じ曲が流れていた。だから私は毎朝寝起きのぼんやりした頭でブルックナーの交響曲第7番のスケルツォを繰り返し繰り返し聞いていたことになる。
6.ブルックナーとの出会い
これがいけなかった。一種の洗脳になってしまっていたのである。ブルックナーの音楽のシャワーを毎朝毎朝、浴び続けることになってしまっていたのである。
最初はダサいダサいと思っていても、聞きなれていくうちにトリオの部分が流麗で素敵だなと感じるようになり、そうするとスケルツォ楽章全体が好きになっていく。そうこうするうちにその前後の楽章も聞きたくなってくる。
折しもブルックナーを得意とする有名な指揮者(スクロヴァチェフスキ)が読売日本交響楽団の常任指揮者を務めていた時代であった。テレビ(NHK教育のN響アワーやBS日テレの読響特集)でもブルックナーが頻繁に取り上げられていた。また、この頃のCDショップのブルックナーのコーナーはいつになく充実していた。
つまり私は当時、ブルックナーにハマるための最適の環境下に置かれていたということになる。そうして改めてブルックナーの交響曲第7番のアダージョを聞いたとき、心が打ち震えた。今でもその感動をはっきりと覚えている。カラヤンとウィーンフィルのCDだった。
巨匠が生前、最後に遺した録音である。カラヤンはこのライブ録音の三か月後にこの世を去った。
こうして私はついにブルックナーの交響曲の世界へ本格的に足を踏みいれることになったのである。
7.それから
あれから十数年、私は何一つ変わらない。
今なお、来る日も来る日も、バッハがどうのこうの、ブルックナーがどうのこうの。超大型連休となればウィーンへ、ライプツィヒへ。
いやなに、ティーンのころに熱中したものこそ、本物なのである。その人の人生そのものなのである。