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働き方改革≠全てを縮小・簡略化すること

 先日、久しぶりに所属校で行われている自主学習会に参加しました。オンラインでの参加でしたが、学校現場で切磋琢磨し合いながら学び合う若手〜中堅の姿を見て自分もエネルギーをもらいました。この日の学習テーマは「授業研究」でした。授業研究は何のために行うのか?といった点を改めて言語化しようという試みだったと捉えています。
 話が進む中で「働き方改革の一環として授業研究を縮小させる(正確に言えば「やめる」)という案が出ているが、果たしてそれは良いのだろうか?」といった悩みを出してくれる中堅教諭がいました。「授業研究を縮小させるのは良くないと思っているけど、働き方改革というパワーワードの前に、授業研究を縮小させてはいけない明確な理由が述べられない。困った・・・」という思いが見えました。

モヤっと話の時はイカの写真(北海道にて)

 新型コロナウィルスの影響で諸々の活動の規模が縮小された経緯から、学校現場では行事の精選をはじめ、校務の見直しが継続的に進められるようになってきていると思います。これ自体は大変素晴らしいことだと捉えていますが、縮小や簡略化すること自体が目的となり、簡略化してはいけない部分まで簡略化しようとしていないかという点に注意を向ける必要があると思います。
 教師が担う仕事が多いという意見は私も同感です。各学校での校務のスリム化は継続して必要でしょうし、行政レベルでの指導内容や授業時数云々といった点のテコ入れも本格的な議論が必要だと考えます。その一方で、教師の力量形成に大きく関わる授業研究の縮小や廃止にまで手を伸ばしてしまうのは正直まずいのではいかと思います。(こういった教師の働き方改革の議論は現職院生同士でも意見がわれます)
 教師を専門職たらしめている要因は何でしょうか?様々な研究があるようですが、主に日々の授業の省察を通して教育者としての総合的な力量を高めていく営みにこそ、その答えがあるように考えます。ですが、その省察というものはなかなか一人ではできるものではありません。年齢や経験といったものは多少なりとも関連してくるかもしれませんが、年齢や経験があることが省察ができる、教師としての力量があるということには直結しません。省察のためには自分を主観的に振り返るとともに客観的に振り返ることが必要だと考えます。自身の授業を主観的かつ客観的に振り返ることができ、そこからの気づきを次回の授業に活かすことができるのは授業研究の良さだと思います。そしてその気づきは学校の教員全体に共有され、様々な学級、活動で汎化されていく可能性がります。このような授業研を縮小、廃止していくという案が出るところまで現場は追い込まれているのかとショックを受けるのと同時に、授業研究の実施方法の再検討も必要なのだろうということを強く感じました。改めて自分が学校現場に戻った時にできることは何だろうと思いを強くしたところです。

久しぶりの🌈

 今日は聾学校の学校見学と高校生への聴覚障害に関するワークショップです。忙しい1日になりますがご機嫌に頑張ります!皆さんも良い三連休をお過ごしくださいね🌸今日もご覧いただきありがとうございました!

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