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教材研究よりも読書をする?
以前読書は知識を得るために行うものではないといった記事を書きました。
一方で、教師という仕事柄、ある程度教科の専門性やその時々のニュースの背景などを説明する力を身につけておきたいものです。そのために専門書を読むといった行いを否定するつもりは毛頭ありせん。しかし、なかなか時間がとれないと言った声を耳にするのも事実です。自分をアップデートする間も無く次から次へと授業を「こなしていく」といった状態に多くの先生が陥っているのではないでしょうか。
教師には「指導書」と呼ばれる虎の巻があります。大体一冊1万円以上します。原則一般の方は購入できません。指導書には使用している教科書に合わせた授業プラン、板書例、発問などが詳しく掲載されています。多くの先生、特に若い先生は積極的に活用していることと思います。私のように教科書のない(正確に言えばありますが、一般化・体系化されたものではない教科用図書)特別支援学校を長く経験したものにとっては指導書は本当に便利なツールであると感心しました。反面、満を持して指導書に書かれている通りに授業を行ってもうまくいかないことの方が多いというのが正直な印象です。私の場合指導書があるせいで自分という存在が歪められてしまうような感覚をもつことが多いのです。授業を「やらされている」感ですね。
「じゃあこんな時間がない中でどうやって授業の準備をすれば良いんだよ!」
「経験の浅い先生が急に現場に放り出されて、どうやって授業するんだよ!」
といった声があるのは重々承知です。あくまで私の場合指導書は肌に合わないというだけで、指導書を活用して授業を行うことはなんら問題ありません。
私自身、1日フルコマで授業を受け持つ際はどうやったって教材研究が間に合いません。その際は、それぞれの教科1時間で教えたい目標、達成基準だけ前の日30分程度で考えます。その際に指導書を眺めることはあります。(長期休みに授業準備ができていればそれを見返します)授業の展開はある程度イメージしますが後は子どもとのやりとりでその都度修正します。板書計画については9割方たてていません。板書は思考の流れが見えるようにするものだと捉えていますので、ある目標や課題に対しての思考の流れは事前に大まかに予想はできても結局その場で変わることが多いものです。私は割り切ってその場で対応しています。このようなことを書くとお叱りを受けそうですが、事実なので書きました。教材研究は終わりがありません。だからこそ自分で終わりを決めています。
教材研究を一定時間で終わらせるのは本を考えながら読むということを習慣にしているからです。ミステリー、ビジネス書、教養書・・・教育とは全く関係ないことが書かれている分野でも授業に活かせることはたくさんあります。昨日も『Iの悲劇』(米澤穂信)というミステリーを読んでいましたが、限界集落に人を誘致するという行いの是非を子供達と考えてみたいなと思いました。実際に都心部から移住したらどのような生活が送れるか、何人くらい人が移住してきたら「まち」として機能するのか、「まち」にはどのような建物(病院や商店)が必要か、そもそも限界集落に人が来ることは自治体にとっても移住者にとっても幸せなことなのか・・・。なんてことを考えました。とことん教科の本質に迫る先生もいらっしゃいますが、私はどちらかといえば広い視点で、教科書に載っていること以外の身近なこと、子供が興味ありそうなことを題材に授業を作る方が好きだなと感じています。
何かの参考になれば幸いです。