朝井リョウ『正欲』

この本を読み終わったとき、私はとにかく何かを書かなければならないと思ってパソコンを開いた。

怒り、悲しみ、慟哭、諦め。

様々な言葉で彩られるはずのこの物語には、しかし希望が見つけられなかった。

希望が見つけられなかったことが、私には悔しくてたまらなかった。

物語を読んでいて、叫びだしたくなるほど悔しい思いをすることが一体何度あるだろう。

現実に生きていて、叫びだしたくなるほど悔しい思いをすることが、一体何度これからあるのだろう。

私はまだ、明日を生きたい人の側にいる。

朝井リョウさんの『正欲』は、本屋大賞にノミネートされたことで一層話題性を増した。
私自身も先生に勧められてはいた。それをなんとなくの逆張りで読まずにいて、昨日、ようやく手に取った。そのときの話は、別の場所で詳しく語ろうと思う。

私はなんとなく、その本に向き合うときが今なのだろうと思った。

本には旬がある。
その人にとって必要なときにその人はその本を手に取るのだ。数年前に買ったきり読めていなかった本に急に呼ばれて読んだり、逆に本に「今じゃないよ」と告げられたり。本を好きな人間なら、少なからずそういう経験はあるのではないだろうか。
私にとって『正欲』の旬は、大学3年生の春学期最終日。世界を焼き尽くさんとする太陽がその身を地平に隠して、心地よい夜を招いた7月の最終月曜日だった。

正直に言えば、私はこの感想を私だけのものにして閉じ込めておきたいと思う。この読書体験を開陳することは、私の手を離れてこの文章が世界に滲んでいくことだ。
この本と共に心の奥深くに大切にしまいこんだほうがいいのではないか。
その思いを押しやって、私はこの文章をここに遺す。

※この先ネタバレになります。読んでいない方はぜひ自身で読んで、その記憶を書き留めてから読んでください。

本作は寺井啓喜、神戸八重子、桐生夏月の3人の視点を皮切りに、諸橋大也、佐々木佳道の2人の視点が追加される一人称小説だ。ジャンルは群像劇に近いように思う。
それぞれの視点から抱えているものが明らかにされ、そして一つの事件に収斂する。
その過程で描かれるのは、マイノリティとマジョリティと括ってしまうにはあまりにも重層的な人々の性だ。

性には多くの意味がある。性別を表すだけでもセックスとジェンダーがあるし、肉欲を表す性も、特徴を表す性もある。そして性は生である。

私はこの作品がこうして多くの人の間で話題になり、読まれることを嬉しく思う。様々な立場の人がこの物語を少なからず面白いと、良いと評価している社会に安心する。
一方で、どうして簡単にこの物語を良いと世に主張して、誰かに勧めることができようかと思う。なぜこんな苦しくて痛い物語を、簡単に人に勧められるのか。その無神経さに絶望する。もしかして、この物語をこんなにも苦しいと思うのは私だけなのではないかと、不安になる。

私はこの文章を、繋がりを求めて書いている。

否、文章でならきっと何かと繋がっていられると思っている。

そしてあわよくば繋がった先で正しい”と認められたいと願っている。

この本に関して、私はあまりにも書きたいことが多すぎる。そして、それは先の文章のようにあちらことらへとすぐに散って行ってしまうだろう。だからそれらをつなぎとめる鎖として、各主要登場人物について語ることにする。

1.寺井啓喜


寺井啓喜は、正しい岸にいる人物だ。これは比喩でもなんでもなく、検事という立場がそれを示している。正しく生き、そうして自身について何の疑いもせずに生きてきた。だから、息子が不登校という不正解を選んだことに向き合えない。
私は彼に対して、ずっとおめでたい頭だなと思っていた。彼の見えている世界は名前の付けられるもので構成されている。名前の付けられないものは不必要か、存在しないものである。水道から出る水に性的興奮を覚える性癖に名前はない。だから、彼の世界にそんなものは存在しない。
彼はよく「影響されやすい」という言葉を悪い意味で使う。彼にとって世界から簡単に影響されることは悪であり、その可能性を助長するものは悪であろう。では、彼の影響されない軸を彼は考えたことがあっただろうか。真剣に、自身の性と向き合ったことはあっただろうか。妻の涙に性的興奮を覚えることを自覚した彼は”正欲”を持っているのだろうか。
きっと彼は、これからもこうして異常者を異常者とすることで生きていくのだろう。多様性という言葉にどこか心のひっかかりを覚えながら、息子が異常でなくなることを望んで。
その人生の一辺にあの強烈な繋がりを持った夫婦のことがあればいいと思う。それが傷になればいいと私は思ってしまう。

2.神戸八重子


神戸八重子はマイノリティのマジョリティだ。彼女はマイノリティの要素を比較的多く持つために、自身のマジョリティ性に気づけない。最後まで、わからない。
この世には男女がいて、たまにそれから外れてしまう人がいて、彼らはみんな仲間と出会えることで少しだけでも楽に生きられる。私がそうだったから。
彼女の行動は、”私がそうだったから”に帰結する。それは悪いことじゃないと私は思う。人間は自分の予想の範囲でしか生きられないし、その予想は自身の経験に由来する。彼女がその想像力で隣人の一人でも救ったことは確かだろう。学祭で、ミスコンを廃止したことで救われた名前なき人は必ず存在する。
でも、だから、救えない人間の存在にあまりにも鈍感だった。
「私はわかるよ」と言うとき、本当にわかっていることなどほんの数%だ。
そのことを彼女は見誤った。
見誤ったからといって、彼女が見落とした人々はどうなることもない。ただそうしてそこに、社会に在るだけなのだから。

3.桐生夏月


桐生夏月はこの物語のマイノリティの深層にいる。前半で彼女が遭遇するあらゆる人間関係はよく知ったもので、それだけに辛いものがあった。例えるなら、テレビでBL特集をやっているときに親が「時代は変わった」とコメントをし、そのことに空虚な同意を示すような居心地の悪さ。これを愛好する人は変わっているけれど、そういう人たちは身近にはいないだろうから、正直どっちでもいいという無理解を肌で感じ取ってしまったときのような、やるせなさ。あなたの隣にいるまさにその人が、愛好者だというのに。
彼女の体験は、私がこれまでしてきたものと、これからするであろうものと重なる部分が多かった。だからこそ私は彼女に救われて欲しかったのだと思う。
世界との摩擦を見つけた後半の彼女はずっといきいきしていて、この物語の息継ぎができる場所は彼女と佐々木佳道の章だった。
季節を求めた彼女は、これからどうするのだろう。「いなくならないから」と言葉を交わした夫婦は、また季節を取り戻せるのだろうか。独りの夜を飼い慣らせるのだろうか。

4.諸橋大也


諸橋大也はこの物語の怒りだった。彼がきっとこの物語を怒りの物語にした。その怒りはあまりにも眩しく、鮮烈で、熱くて、冷たかった。
奇しくも同い年の彼の立場は想像ができた。サークル、ゼミ、多様性を掲げて邁進しようとする未来ある若者、恋愛。身近という言葉では軽すぎるくらい、肉薄した場所にそれらはある。特にダンスサークルのような煌びやかな場所には往々にして男女の諸々が付きまとう。だからといってそれを避けようとすれば、必然的に彼は大人数のダンスで表現する場を失うのだ。なぜ、あちらの岸にいなかっただけで好きなものを諦めなければいけなかったのか。
彼の存在は、桐生夏月や佐々木佳道が人の輪に無理矢理入ったとしたら、というifの苦しみを痛いほど強く刻み込む。生まれたときに根幹が違っただけで、どうして。
八重子の暴力性は彼によってあらわにされる。彼はこうして物語の中で一等輝く。
こんな輝き方をするなら、いっそ埋もれたままの方がよかったと、私は思う。

5.佐々木佳道


佐々木佳道に対する言葉を私は持ち合わせていない。本の中で一番つかみどころがなく、それでいて一番中心に静かにいた人。
彼の視点で進む章で、私は簡単に呼吸ができた。彼があのYoutubeチャンネルで呼吸したように、ここが私の息継ぎだった。だから、パーティの話が冒頭のネット記事と重なったとき、息がつまった。呼吸ができなかった。あまりにも理不尽に奪われた喪失感を、絶望を私はいったいどこにぶつければよかったのか。
どうか、お願いだから、佐々木佳道の季節を奪わないで欲しい。佐々木佳道に、季節を返してほしい。
一体何に祈っているのか私にはわからない。
ただ彼がこれから先も呼吸をしていて欲しいと切に思うのだ。


この物語の中で、どうしても読めなかった章がある。
それまでも何度もページをめくる手を止めていたが、そこだけは、どうしても物語を私は拒絶した。
最後の、田吉幸嗣の章である。

昔から読書と物語がなにより好きだったが、物語を拒絶したのは初めてだった。
どうして読めないのかと困惑したし、傷つきもした。
結局、読了から数時間経った今も読めない。
吐きそうになりながら、私はしかたなく次の寺井啓喜の章に移った。

本を読んでいて、叫ばなければ身が粉々になるような思いをしたことはあるだろうか。

引き裂かれる痛みに耐えながら、涙を流して読まなければならない本はあっただろうか。

朝井リョウさんの『正欲』は悲鳴であり、怒りであり、諦めであり、希望だ。
彼がこれを書いたこと、これが多くの人に評価され、読まれること。
それはまごうことなき希望だった。

狂人は、自身が狂人であるがために隣にいる人もまた狂人である可能性を考えられる。

私は、これを読んでいるあなたは、正気の人なのだろうか。


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