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さらば、のび太!

我輩の犬の名は、「のび太」という。
10歳のチワワだ。

「のび太」はもちろん、大好きな「ドラえもん」から名前を頂戴している。

動物病院に行くと「のび太くんのママー!」と呼ばれて、病院中の注目を浴びてしまうので大変光栄だ。
「ドラえもん」の映画なぞ観た日には、まるで我が子たちが孤軍奮闘したかのように手に汗を握って応援してしまって、その名前だけで十分楽しませてもらっている。

のび太は有名ブリーダーの犬舎で生まれたのに、引き取り手が付かずに大きくなっていたそうだ。それも納得のマイペースぶりで、散歩も嫌って寝てばかりいる。主人以外には媚びず、相手を信用するまで無闇に尻尾を振ることもない。

美術大学を舞台にした青春群像漫画「ハチミツとクローバー」の中に、こんな台詞がある

犬には2種類しかいないんです。
前世人間だった犬と、前世も犬だった犬。


まさに前世が人間だった犬、という言葉がしっくりくる。
人間の感情や場の空気を読んで動くので、まるで言葉が通じるように感じるのだ。
失恋して泣いている友人の膝の上に、そっと登って頬の涙を舐めてあげる。
忙しくて構ってやれないと、脚が痛いフリをする。けれど…途中で痛がる脚を左右間違えて仮病がバレる。
その姿を見れば、誰もが納得する「のび太」ぶりだ。

ペットを家の中で飼うようになって、犬の存在は「ペット」から「家族」に変わった。ましてや子どもがいないので、家族の中では子どものような存在になっていた。自分が小さい頃に飼っていた雑種の犬は、一年中庭にいた「ペット」。それに比べて、服を着せたり、トリミングに連れて行ったり、犬用のケーキを買ってあげたり…ちょっと自分でも常軌を逸しているんじゃないかと心の中で思いながら、日々の暮らしがそれで華やいで、楽しいのであれば良いと思っていた。

私が会社を辞めて間も無く、「のび太」に異変が起こった。
鼻ちょうちんが消えない。割れてもまた膨らんで、その姿はあまりにもチャーミングだったのだけれど、鼻の奥ですっかり癌細胞が大きくなっていたせいだった。手術ができる場所ではないので、放射線治療しかないという診断だった。
私の身体が空いている時に癌になるところまで、空気を読んでいる。

ペットは家族だと簡単に言うけれど、じゃあ、病気になった時はどうしたらいいんだ…

放射線理治療の費用は数十万円。趣味の海外旅行を2回我慢すれば捻出できる。当時のび太は8歳、まだ若い。「できることならなんでもしてあげたい」と思ってしまった。

定期的に大学病院まで通っての治療を始めると、放射線の副作用も次々に起こった。
外出して帰れば、血便まみれで動けずに鳴いていることもあった。苦しそうに小さな身体で病と闘う姿を見ながら「こんな思いをさせる必要があったのか…」と、自分を責めて泣くことも一度や二度ではない。副作用を抑えるための度重なる通院、入院で、当初予定していた治療費は何倍にも膨れ上がっていた。動き始めた治療のスパイラルは、途中で止めることができない。もちろん生活は犬中心になり、仕事も制限し、旅行もせず、友人と遊びに出かける機会もぐっと減ってしまった。

約一年の治療を経て、なんとかのび太は元気になった。
放射線の後遺症で顔は禿げてしまったが、散歩嫌いだったのに、以前よりも快活に走り回るようになった。途中で鎌倉に転居したこともあり、海辺で楽しそうに遊んで暮らしていた。沢山のものを捧げて、再び取り戻した犬の元気な姿を見て「これでよかったのだ」「この時間のために頑張ったのだ」と自分に言い聞かせながら、幸せな日々を過ごした。

そして、楽しい一年が過ぎ、昨年の暮れに癌が再発した。
もうこれ以上、小さな身体では放射線治療には耐えられない。
思ったより早かったな…さて、どうしようかと我に返った。

愛犬を看取るのは初めてではない。
実家の雑種犬も17年生きた後、脳卒中で半身不随になった。それを安楽死で看取ったのも私だった。

家族からは「さっさと自分一人で決めて、さっさと殺して、ひどい!」と言われた。つきっきりで看病しないと、わからないことはいっぱいある。放っておくとすぐにできる床ずれ。死を察知して湧いてくる蛆…鼻をつく悪臭。犬がどれだけ苦しんでいるのか、これまでの暮らしに比べて、どれだけ不自由になってしまったのか。忙しい家族に、「一刻も早く楽にしてあげたい」という気持ちは共有できなかった。

谷口ジローの「犬を飼う」という本がある。

作者が老犬を自宅で見送るまでの過程が、飾る事なくリアルに淡々と描かれた作品だ。
愛犬との死別を「美しい思い出」にした本は沢山あるけれど、生き物を看取るという現実を心に染み入るように描いた物語を、私は他に知らない。

その中にこんなシーンがある。主人公の妻が足腰の弱った老犬を散歩させていると、道行く人に

「抱いてってあげたら かわいそうよ」

と、声をかけられる。

”かわいそうじゃない”
”歩けなくなるほうが よっぽどかわいそうだ”
そう言い返したかった

足腰を弱らせて、寝たきりになって過ごさせる方が残酷だと思うのだが…命の重さや人生を大切にする方法は、人の数だけ価値観が異なるのだろう。

私も闘病中の犬がいると言うと、よく「出掛けたら可愛いそうじゃない、ずっと一緒にいてあげなさいよ!」と言われたりした。人間が社会活動を放棄して生きていくのは難しいし、息抜きの時間も持たずに、精神的に健康を保って笑顔で看病を続けるのも難しい。これは、人間の育児も介護も同じではないのかと思うのだが、どれも同じ経験をしたことのない人に理解してもらうのは大変なことなのかも知れない。

「犬の一生にとって何が一番大切か」なんて誰にもわからない。自分の中で正解を見つけるしかない。私はただ、犬にも「楽しい毎日だった」と思って一生を終えて欲しいと思った。「苦しかった」とか「辛かった」という思い出を抱えて天国には送り出したくないのだ。
医者と相談して決めたのは「食欲が無くなっても頑張らせ続けるのは止めよう」ということだった。胃瘻まで選択する飼い主もいるというが、もう十分苦しんできた犬なので、これ以上は頑張らせないと決めた。
これは自分もそんな風に人生を終えられたらどんなにいいか…と思える選択だった。

春を待たずにその日はやって来て、悲しいけれど見送ることにした。
まだ生きられる命を絶つことは、どんなに頭で理解していても苦しいものだ。
病で異形になってしまっても、腐臭を放っていても、のび太は愛おしいのだから。

荼毘に付すと、のび太の頭蓋骨はほとんど残らなかった。癌と放射線で、既に骨がボロボロだったからだ。
「頑張らせすぎたかなぁ…」と空を仰いだけれど、誰も答えを知らない。

ハチミツとクローバー」の中に出てくるセリフ

犬には2種類しかいないんです。
前世人間だった犬と、前世も犬だった犬。


そういえば、これは夫を事故で亡くした女性が、夫が犬に生まれ変わっているのではないかと探しているエピソードだったと思い出した。

街中で赤ちゃんを見かけると、ちょっと顔を覗いてしまう。
のび太が生まれ変わっているのではないかと期待して。

さらば、のび太!
早く帰っておいで。


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